2009.10.07

物と心のあいだ

この記事は哲太が書きました。

 我々の意識の状態を担うものには脳のはたらきがあります。これは神経細胞ニューロンのスパイクと呼ばれる発火現象のあつまりです。生理学上のメカニズムは複雑です。からだの状態は物理学と化学によって分析され、化学反応と物理現象のあつまりとして理解されます。

 からだは必要なものです。その指先が我が子のほほに触れるために。また、完璧な条件のうちに弾かれたピアノの一音を聞くために。

 生物学はからだを細胞に分けます。60兆個の細胞はからだそのものであり、からだを二分して30兆個ずつにするとからだではなくなります。分たれた細胞はその活動を一斉にやめ、からだは死ぬのでしょう。

 ニューロンのスパイクは個別の神経細胞について計測されます。電位を計測するために、神経細胞のすぐ近くに電極を持っていってニューロンが動き出すのを待つのです。計測器はからだの一番近くに行って、からだの動きを精一杯計ります。計測器はからだと一つになることはできません。あと少し、その距離は小さいのでしょうか。それは説明されなくともよいのではないか。それでもそれを説明しようとすると、一生近づき続けるけれど決して超えられない何かにはまり込んでしまうのではないか。そんな一生も良いかもしれないと思う人だけが、果てない言葉の中で生きられるのかもしれないと思います。

 同じ土俵で生きていくなら、みんな仲良く生きられた方が良い。同じ説明するなら、よい言葉を選んだほうがよい。それを少しでも簡単にするために、手助けが出来たら良いと思います。

 今自己にとって一番生き生きとした生活と、それを間近で計測するものたちとの関係は切れないものです。科学や学問は既に溶け込んで、この関係を形作っています。この関係は、自己のからだの上からの見方と、外から眺めた見方があり得ます。双方は、自己自身を鏡のようにして、互いに関係しあっていなくてなりません。この関係について考えてみたいと思います。

 

続きを読む "物と心のあいだ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.07.14

予測市場と集合知の「実装」

この記事は哲太が書きました。

 個人に分散した知的行為を1つの数値に集積するシステムという意味で、近年「集合知」という言葉が用いられるようになってきました。辞書の編纂をすべての人の知恵を合わせて行う『Wikipedia』や、ソースコードをウェブ上のすべての開発者で共有するオープンソースソフトウェアの概念など、現在のウェブにおいて、集合知を実装したシステムはもっとも重要であると思われます。Googleの検索アルゴリズムの重要な概念であるPageRankも大きい意味では集合知を用いていると考えられます。

 近年徐々に規模を大きくしている集合知の実装システムに、株式市場のシステムの集合知の側面のみに着目して抽出したシステムである予測市場があります。予測市場は株式市場における人々の経済行動における集合知に特化してこれを利用しています。今後多くの集合知を利用したシステムが出現すると考えられますが、予測市場を例として、そもそも集合知とはどういう性質をもつのか、実装における問題点は何か、などを考えてみたいと思います。

続きを読む "予測市場と集合知の「実装」"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.05.25

言葉と本居宣長

この記事は哲太が書きました。

 「考えるヒント」(小林秀雄、文春文庫、2004)という小林秀雄の評論集があり、この中に「言葉」という節があります。『本居宣長に、「姿ハ似ガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある』から始まるこの短い評論は、言葉の「姿」と言葉の「意」について本居宣長の批評を解説するものです。特に、言葉の作用を歌を題材に考察します。

 ソシュールが言語学の中で引き合いに出される際によく言われるのが記号の恣意性です。(参考「ソシュール再考」)この記号の恣意性というのは、一見すると意味されているもの(シニフィエ)が何であるにせよ、それを意味するもの(シニフィアン)は制限されないということで、姿と意が恣意的に、つまり自由に結び付けられるということに思えます。こう考えると、実際に現れている言葉の姿に価値はなく、その意こそが大事であり、これを理解することが重要であるということになります。注意すべきなのは、ソシュールはまた、ある語の価値はシステムの中の相対的な位置関係、つまり他の語との兼ね合いによってのみ決まるとも言っていることです。姿と意の結びつきは任意だけれども、姿の価値は姿同士の相対的な関係によって決まるということで、単純に上のように言ってしまうことはできません。

 小林英夫が注意を喚起しているのは、言葉というものは恐ろしいということに気づくことは難しいということです。言葉というのはいつも独り歩きしがちであるという感覚を持っている人には、それほど驚くことではないかもしれません。実際に身近な対象であることから、言葉の微妙さ、難しさは理解されにくいところがあります。しかし、考えてみると、自分の言葉がどう飛び回り、はたらき、また他人の言葉がどう自分に着地し、受け止められていくべきかということは考えるに値することです。

 「考えるヒント」から考えたことをひとつまとめてみたいと思います。

続きを読む "言葉と本居宣長"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.03.29

教育の力学モデルと「運動の3法則」との対照的関係

この記事は哲太が書きました。

1.教育と学問との対照的関係

 学問というのは真理を探究するものであり、教育というのは人を教え育てることです。しかし、学問研究の中心のひとつである大学の教授は、教育と学問とを同時にするべき立場にある。どうも学問と教育は違う。しかし、その両方を1人が担えるとされている。教育学ということばはあるけれども、教育学は教育を自然現象のひとつとして学問する、学問分野のひとつです。

 教育と学問が決定的に異なるところというのは、教育できるものというのは、基本的に考察・研究されたものだけだということです。けれども、教育が学問で得られた成果、つまり知識や智慧をまるごと伝えるだけかといわれると、それとも少し違う。それは勉強であって、勉強とは学問を学習、つまり学び習うことです。したがって、学問で得られた成果を最もよく知る研究者が教育者として最も適切だということにはなりません。

 教育のプロフェッショナルは教育者であって、それが必ずしも研究者であるとは限りません。ただし、教育と学問の共通点は、その真理との距離が比較的近いことだと思います。一方は、科学的なものはもちろん道徳的倫理的な側面も含め、これまでの成果を「より広く」伝え、一方では、真理に「より近く」寄ろうとします。教育の目標は、あるときに存在するほとんどの人に真理を伝達することであり、学問の目標は、時間によらず存在するべき真理に漸近することです

 ここにひとつの対照的関係があります。つまり、教育は時間を固定したときに、また学問は時間を普遍にしたときに、最も求める真理との関わりが大きくなります。言いかえると、教育は共時性が、学問は通時性が、最重要です。

 だから、教育というのは、個人の誰が教育されたかよりも、教育者の誰に教育されたか、もしくは「どんな」教育をされたかということが重要になります。特に、「どんな」の方に着目しますと、その時代に固有な教育者によって教育された、その時代の固有な人たち、という人間の集合ができる。その時代「風の」教育を受けた人たちになるわけです。教育の重要性というのはここに あって、時間が固定されているときにもっとも重要な部分が見えるわけです。

続きを読む "教育の力学モデルと「運動の3法則」との対照的関係"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.03.27

言語の変化の「運動の3法則」による考察

この記事は哲太が書きました。

 ひとつの提案として、言語それ自身を扱うのではなく、言語の変化を見ることで言語の本質を考えるということを挙げます。運動は物体の位置の変化 です。物質が何からできているか分からなくても、その変化は観察することができます。言語の変化は人々がお互いの言葉を交わすことによって生まれることは 明らかです。これをコミュニケーションと呼ぶことができるでしょう。コミュニケーションと運動を比較することで、物理学の方法を心理学的言語学に用いるこ とはできるでしょうか。

1.言語学の方法

 ソシュールに端を発する一般言語学とは、言語そのものの一般的性質について考察したものです。つまり、具体的な言語によらずに、言語を扱う上で必ずかかわってくるような性質についてです。

 この一般性が、ソシュールがしばしば言語学者として以上に、哲学者として取りざたされる所以だと思います。構造主義といわれる、この無意識レベルの性質についての思考のアクセス法は、それまでの伝統的言語学、つまり歴史言語学や比較言語学といったものの着眼点からはちょっと想像しにくいほどの飛躍があったように思います。

 ソシュールは音韻論を踏まえて、つまり観測データを踏まえて、言語について述べました。ソシュール自身による文章が残っていないのが本当に残念ですが、各種の資料から見ると、定量的なアプローチをかなり意識したものと思われます。時間と空間についての考察がかなりされています。また、これら2つのものは分けて考えなくてはならないとも書かれています。しばしば、ソシュールは共時的な言語の性質を論じたと言われますが、僕はそうではなく、どちらも等価に扱っているように思います。これについて詳しくは「ソシュール再考」を参考にしてください。

 その一方で、伝統的な言語学が重要な主要分野であることは言うまでもありません。実際に使っている言語に、即時的な影響力を持つのは、やはり具体的な”音”や”文法”を扱っている分野なのです。いわば、言語実践の現地におけるデータの分析。科学はいつも観察することから始められなくてはなりません。言語学における定量的な研究に、計算言語学があります。これは、コーパスと呼ばれるデジタルのテキストデータに統計的な考察を加えることで言語的な定性的結果を得ようとするものです。一方で、伝統的な言語学は、音韻論統語論といった、膨大な発話の例から一般的性質を導こうとするアプローチです。

 現在の言語学の主流はノーム・チョムスキーによる生成文法を元にした種々の文法理論です。言語が生成的、つまり語彙を組み合わせていくらでも文章をつくることができるということに着目した理論です。これは共時態を扱うもので、言語の変化を扱うことはあまり無いと言えます。言語の変化は「進化」とも呼ばれ、これを扱う研究はあるにしても、言語学の主要な分野は統語論と音韻論さらには意味論であると言えると思います。したがって、言語の変化を全く別の視点から考察することには、少なからず意味があるものと思います。

続きを読む "言語の変化の「運動の3法則」による考察"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

«ソシュール再考