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2009.01.22

メタな意味について

この記事は哲太が書きました。

1.会話の単位

 1つの聴覚イメージを想起する単位を項(term)といいます。これは言語記号の最小単位と呼ぶべきものです。自然に考えれば、項は語であることが多いと思います。「私はワインを飲みました。」という文章を見たときに、まさか”はワイ”と区切って意味を読み取ろうとする人間はいないでしょう。(この文を読んで「ハワイだ!」と思う人はひねくれた人です。)

 ただし、コンピュータにおいてはこう読んでしまうこともあるかもしれません。なぜならば、コンピュータにとって、ことばの単位は文字だからです。日本語の文字なら2 bytes。つまり、16 bitsの0と1によってしか、コンピュータが文字を理解することはできません。膨大なパターンから、どう区切っていいかを推測するのです。

 パターンから文字を区切って推測する、と言いましたが、人間もそうじゃないかと思うこともあるかもしれません。確かに、私たちが外国語を学ぶ際に、最初に覚えるべきはその言語の文字です。アルファベットを教えずに英語を教える先生はあまりいないでしょう。

 しかし、日本語を覚える際に(1歳や2歳のときのことを思い出してください)、かなをまず覚えた人は珍しいでしょう。この違いは何でしょうか。

 母国語を話すとき、人は語を単位として話していません。もしそうならば、人は驚異的な検索スピードで辞書を逐一検索していることになります。その速度は、日常会話における1分間の語数を考えれば、スーパーコンピュータに匹敵すると思います。(数値は計算はしていませんが。)何しろ、1語発するためには、5万語のデータベースから検索しないといけないのですから。

 では、何を単位に話をしているのでしょうか。感覚的には、”言いたい”ことを単位にしていると思います。話し出す直前、もしくは話している最中の、言葉が出てくるべき心理的イメージです。これをシニフィアンと呼びます。シニフィアンが意味するものをシニフィエといいます。概念のようなものです。

 シニフィアンは記号ではありません。この”言いたい”イメージを、文字(単語)という記号に託すのです。その結果、私たちは”言いたい”ことは言えない感覚を持ちます。

2.メタな意味

 単語からなる一連の文章がメタな意味をもつようになる、という言い方があります。例を引用しておきます。

「たとえば、「ユダヤ人はユダヤ人だ」という文章がある。一文のうちに二回「ユダヤ人」という語が繰り返されるが、この二つの「ユダヤ人」は記号としての機能を異にしている。最初の「ユダヤ人」は語義どおりの記号である。つまり、「ユダヤ教を信仰する民」という「客観的な事実」がそのシニフィエである。しかし二度目の「ユダヤ人」はそうではない。(中略)一文は無意味な同語反復ではなく、「ユダヤ人を憎め、蔑め、排除せよ」という遂行的なメッセージを発信している」(pp 103-104、『現代思想のパフォーマンス』難波江、内田、光文社新書、2004

 もはや、二度目のユダヤ人は辞書的な意味、つまり単語としての意味を超えた意味をもつようになる、ということです。まあ、確かにそうです。これをメタな意味と呼んでおきましょう。

 しかし、この議論の前提になっていることは、「語が文章の単位である」ということです。会話においても同じ議論ができるでしょう。僕は、この単位はシニフィアンだと思うのです。”言いたい”ことが単位なのです。

 文章は読まれるときに、初めて意味を放出します。それまでは、なんというか、インクとか黒鉛とか、そういったものです。そこから意味を取り出すのは、読者です。読者は何を読み取るでしょうか。その文章のシニフィアンです。その文章を読んだ時に、理解する直前の、心に浮かぶイメージです。

 先ほどの文章において、その一文から、メタな意味(シニフィアン+シニフィエ)を読み取ったとします。そのときには、項(term)は一文すべてです。なぜならば、シニフィアン+シニフィエの組が確定的に現れる単位こそが、言語の単位なのであり、項であるわけです。記号は大きくなったのです。

 そう考えると、「ユダヤ人」という単語から想起するシニフィアンも、例文のメタな意味を生じせしめるシニフィアンも、同じ心理的なイメージである以上、等価なものと言わなくてはなりません。頭の中で、これらを同時に考えることはできません。ちょうど、だまし絵(「右脳の解放」)と同じような理屈です。ミクロに見ているときには、マクロな意味は見えないものです。

 記号として見た場合には、確かに包含関係にあります。したがって、同時に存在しています。しかし、心理的なイメージが同時に存在できない以上、これらは背反なものと考えるのが自然でしょう。

 例文を読んで、「なんだ、同じことを言ったって何にも面白くない」と読んだとしても、それは誤読とも言えますが、ダリの絵のミクロにかかれた部分を見ているのと同じことでしょう。
マクロな部分にだけ注目するべき絵ではありません。ミクロに、マクロに、交互に見てこそ「すごい!」と、一番の”メタな意味”としての感動を読むことができるのです。ミクロに描かれた絵は美しくないでしょうか。「大は小をかねる」ということわざは、いつでもは言いにくいものであることを、思い出さなくてはいけません。

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