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2009.03.29

教育の力学モデルと「運動の3法則」との対照的関係

この記事は哲太が書きました。

1.教育と学問との対照的関係

 学問というのは真理を探究するものであり、教育というのは人を教え育てることです。しかし、学問研究の中心のひとつである大学の教授は、教育と学問とを同時にするべき立場にある。どうも学問と教育は違う。しかし、その両方を1人が担えるとされている。教育学ということばはあるけれども、教育学は教育を自然現象のひとつとして学問する、学問分野のひとつです。

 教育と学問が決定的に異なるところというのは、教育できるものというのは、基本的に考察・研究されたものだけだということです。けれども、教育が学問で得られた成果、つまり知識や智慧をまるごと伝えるだけかといわれると、それとも少し違う。それは勉強であって、勉強とは学問を学習、つまり学び習うことです。したがって、学問で得られた成果を最もよく知る研究者が教育者として最も適切だということにはなりません。

 教育のプロフェッショナルは教育者であって、それが必ずしも研究者であるとは限りません。ただし、教育と学問の共通点は、その真理との距離が比較的近いことだと思います。一方は、科学的なものはもちろん道徳的倫理的な側面も含め、これまでの成果を「より広く」伝え、一方では、真理に「より近く」寄ろうとします。教育の目標は、あるときに存在するほとんどの人に真理を伝達することであり、学問の目標は、時間によらず存在するべき真理に漸近することです

 ここにひとつの対照的関係があります。つまり、教育は時間を固定したときに、また学問は時間を普遍にしたときに、最も求める真理との関わりが大きくなります。言いかえると、教育は共時性が、学問は通時性が、最重要です。

 だから、教育というのは、個人の誰が教育されたかよりも、教育者の誰に教育されたか、もしくは「どんな」教育をされたかということが重要になります。特に、「どんな」の方に着目しますと、その時代に固有な教育者によって教育された、その時代の固有な人たち、という人間の集合ができる。その時代「風の」教育を受けた人たちになるわけです。教育の重要性というのはここに あって、時間が固定されているときにもっとも重要な部分が見えるわけです。

2.教育と加速度の対応関係についての考察

 もっとも多くの人の同意を得られそうな辞書の定義から始めて、教育の性質を考えてみます。教育という言葉を辞書で引いてみると、次のような文句が書かれている。

 「他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。」

 まず、意志ということばを広い意味で定義しましょう。ここでは、哲学的な文脈を省いて、「人が何かをやろうとする能動的な思い」ぐらいの意味で考えます。この意味では、人間はそれぞれに意志を持っていて、これがその人そのものを肉体的、精神的に動かしていると感じられます。今の定義では、人間の「方向を変化させる」とあります。人間の変化は意志によると考えたのですから、教育は意志を変化させると言い換えることができます。変化の変化率を、力学の用語で加速度といいます。

 力学では、位置の変化を速度、速度の変化を加速度といいます。したがって、上述の対応関係をまとめると次のようになります。

【力学】⇔【本記事】

位置 ⇔人そのもの
速度 ⇔意志(人の変化の度合)
加速度⇔教育(人の意志の変化の度合)

 普段の観察に照らしてみると、すごく強い教育というのはその人にかなり無理のある意志も持たせるだけの強い「力」を持っているように思われます。良い方向にも悪い方向にも向く可能性がありますから、つまり、向きと大きさがある。これはベクトルとして扱ってもよい。ということは、人間の変化を表す意志も、向きと大きさがあるから、これもベクトルと思うことができる。

 こういう風に「意志」と「教育」という言葉を考えてみると、うまく力学の理論と整合性が取れてくるわけです。単純に、変化つまり微積分的関係の対応があるというだけですが、そもそも力学のいろいろな理論は、力と運動の定性的考察によるものなのですから、モデルが変わっても、その現象の性質が似ていれば、洞察にきっかけを与える程度には説得力のある対照構造を見ることができるかもしれません。ここまで見たように、意志という言葉を都合のいいように意味を与えておくと、わりとスムーズに対応を見られるかなと思います。

 ここで、教育の「力」という言葉を使いましたけれども、力というのは力学で言うと、質量と加速度の積ですね。質量というのも少し分かりにくい言葉で、まあこれもおおざっぱに言いますと、その物体の動きにくさをあらわすわけです。”どれくらい動きにくいか”と”どれくらい動こうとしてるか”の影響を掛け合わせたものが力ですね。「力」が大きいと、かなり動きにくいものでも動かすことができます。

 質量にあたる、その人の意志の持ちにくさはその人が固有の量を持っていると考えられます。つまり、教室で大勢の人が頷いても、ひとりふたりは頷かない人がいるものです。これは、なんというか、個性ですかね。したがって、力の大きさは加速度、つまり教育だけに比例する。教育の力は、個性を省くと、教育そのもののみ考えれば十分です。

 位置との対応を「人そのもの」と書きましたが、その変化を「意志」としている以上、文脈としては、これは精神または心を意味しています。肉体が無ければ、心があり得ないことは容易に想像できますし、教育というものの性質を考える上では、精神的な部分のみに着目するのは悪くないでしょう。

3.「運動の3法則」と教育

3-1.第1法則:慣性の法則

 第1法則、慣性の法則は、運動の状態は力が加わらなければ変わらないということです。止まっているものはずっととまっていますし、摩擦がなければ定速で動いているものはずっとそのままです。後者はドライアイスを机ですべらせたときのことを思い出してください。

 対応を考えると、教育されなければ、同じ意志を持っているということになります。意志を持ってないとするならば、これはその人そのものを何も変えることはありません。何か他の人やものに教育的刺激の力を受けなければ、その人の意志はずっとそのままです。

3-2.第2法則:運動方程式

 第2法則は、運動の変化は力に比例し、力の向きに起こるということです。地球はリンゴを中心に向かって重力で引いていますから、リンゴは鉛直下向きに落ちていきます。これを、普通方程式のかたちで書きます。運動量は質量m、速度vに対してmvで定義されます。運動量の変化は、mvの変化ですから、これはmaです。したがって、次の形に立式することができます。

1_3 …(1)

 その人に固有な意志のはたらきにくさ、さきほどは個性という言葉でごまかしましたが、これをm とおいて、その人が受けた教育をaと置きますと、対応を考えると、教育の力Fというのは(1)で書けます。この対応というのは、先ほど、教育の「力」について考えた時にうまくいくように定義しました。

3-3.第3法則:作用反作用の法則

 第3法則は作用反作用の法則です。これは、あらゆる作用の力には、互いに逆向き同じ大きさの反作用が必ず伴うというものです。これのおかげで、机の上のリンゴは重力がかかっているにもかかわらず、机を突き抜けて鉛直に落ちないで、それがちょうど止まるだけの力を机から受け取って支えられています。

 対応を考えると、教育者は生徒から同じだけの力を受け取るということになります。これは観察によって、比較的多くの人に認められます。先生というのは教えるだけじゃない、生徒から教わることもあるんだ、ということです。いわゆる、切磋琢磨ということでしょうか。

 以上より、運動の3法則はわりと説得力のある対応関係があることが分かりました。力学の諸法則はこれらの3法則からの演繹ですから、この力学モデルで教育がその人に与える影響を考えることは、それほど的外れでもないかもしれません。

 これらの3法則をもとに、他の力学の概念や法則と教育の力学モデルを対応させて考えていくことで、教育のあるべき「自然な」性質というものについてアイデアをもらうことができるのではないでしょうか。というのも、ニュートン力学は自然の運動について、これ以上ないほどの説得力のある理論だからです。教育について、ひずみのない自然さが得られるのであれば、これは素晴らしいことです。

4.力学の諸法則と教育、心理的運動

 最初は教育、つまり加速度にあたる概念は何かということで、この議論を出発しました。1:位置 2:速度 3:加速度と、1:心 2:意志 3:教育 という対応を考えて、さらにそれらが運動の3法則を近似的に満たすような構造を持っていることを得た今となっては、この教育の力学モデルは、心理的運動の力学モデルといってもよいでしょう。つまり、心の速度を意志とみる、心理についての比喩的運動のモデルです。

 以下では、心理的運動に関して、力学の法則を対応させて考えることで、心理的運動の性質を見てみることにしましょう。

4-1.運動量保存則

 運動量保存則は、力が加わらなければ全体の運動量は保存するというものです。典型的な例として、衝突があります。ビリヤードを思い出してください。強く打たれたある球は、他方の球をはじいて自分は止まります。これは2つの球の合計の運動量は保存しているということです。先ほど、運動量は質量と速度の積mvで定義されると言いました。この表現を使うと、物体1と物体2の運動量は、衝突の前後で保存することを下のように立式することができます。衝突後の速度にはプライムをつけてあらわしています。

2 …(2)

 対応を考えて、ある2人の人間1と人間2を考えて、その人の意志のはたらきにくさをm1とm2とします。ビリヤードの球を思い浮かべながら、それと同じようなことが起こるということになるはずです。

 球が正面から等速でぶつかり合った場合(v1 = -v2)は、相殺して0になります。全く逆の意志がぶつかりあったとき、どちらも意志が止まってしまうということが主張されます。つまり、衝突というのは意志の交換のようなものが行われるべきで、全く違う意志だった場合は「それぞれてんでばらばらに散ってしまう」のではなく、「相手の話を全く真に受けて動けなくなってしまう」はずだということです。現実の観察では、むしろ前者の方が起こりそうな気がします。この比較対応が示唆することは、後者の場合があるべき自然の心理的運動であること、心の衝突、つまり触れ合いは相手の意志が自分のそれと全く等価であることを前提にすることです。

 人間1を生徒、人間2を教育者として考えてみましょう。球2が止まっている球1に衝突すれば(v1=0,v2=v)、運動は逆転して、球2は止まり球1は同じ速度、つまり意志で進むことになります。これは運動を教育をもって出発点として考えたことからくると思うと、少し説明できます。つまり、教師は自分の(教師としての)意志をすべて生徒に伝えきれば、あとに残る意志は無いということです。ただし、「衝突」は力、つまり教育を媒介せずに直接移り変わるものだということを思い出してください。教育の力として生徒を加速させているのではなく、あくまで教師と生徒の人間としての「衝突」を考えたときの究極的な心理的運動状態の遷移です。

4-2.力積

 力積というのは、運動量の変化です。一定の力Fがt秒間だけかかったときには、Ftで定義されます。この2つを合わせると、

3 …(3)

 で立式できます。力がその物体にt秒間でどれだけの影響を与えたかを示す量です。

 対応を考えると、教育の力Fに対して、ある時間でその人がどのような人になったか、をあらわします。今、Fは一定の力として立式しました。つまり、「その時代に固有な教育者」という人たちによってなされた、ある一定の教育の力について考えます。このときは、ある人の意志の変化はFとtに比例します。最初の方で、「すごく強い教育というのはその人にかなり無理のある意志も持たせるだけの強い「力」を持っているように思われます」という風にいいましたが、(3)はこの観察事実を支持するもののようです。

 また、(3)によると、固有の教育を受けていた期間が長いほど、その意志の変化は大きいということを意味しています。ただし、教育制度は原理上一定であり得ません。したがって、(3)は近似ですが、十分短い時間ごとに(3)を振り返れば、良い精度で成り立つといえるでしょう。ここに、教育のジレンマがあります。つまり、長い時間一定で教育し続けることができれば、その時に定められた”理想の教育目標”というものに到達できるのですが、教育は時間変化するために、結局左辺、つまり教育の効果は思ったようにいかずに、短時間の効果が合成されたものになってしまうのです。

4-3.反発係数

 反発係数 e というのは、0から1までの値をとります。衝突に際して、e = 0 の時は全然跳ね返らずにぼすっと落ちる。つまり、運動量は跳ね返りの後0になる。e = 1 の時は完全に跳ね返って向きだけ変わる。つまり、運動量は跳ね返り前後で保たれる。

 これについて同じように対応を考えるのですが、衝突について、2物体ではなく、壁との衝突を思い浮かべると、ボールが壁に跳ね返っているようなイメージです。壁と対応するものとして、自然や真理という風におきましょう。このひとたちは、意志がめちゃくちゃ固くて、m = ∞ です。それは、これらの言葉の定義がそれを意味しています。自然が人間に教えてくれること、というのももちろんあるわけで、これを教育者としての自然ということにします。この教育者さんは意志を変えないです。

 このような、自然との衝突を考えた時に、教育のモデルの中で、学問を考える余地が出てきます。つまり、学問は自然という教育者の生徒になるという風に考えるのです。

 e = 1のとき、これは人間ががんばって、がんばって自然にぶつかっていっているのに、向きだけ変わって全然自然には影響を与えられないさまを表していて、ちょっと泣けますね。

 まあ、それでもたいていの現実の物質が 0 < e < 1 であるのと対応していると考えれば、普通は 0 < e < 1 と思ってもいいでしょう。このとき、自然というのは人間に教育しつづけてくれるわけです。

 e = 0 のとき、つまり自然にぼすっと当たって速度が0になる、つまりそれ以上自然の方へ向かっていきたくなくなるときが、学問の終わりなのかな、と思います。自然にぶつかっても、なんにも感じないわけですもんね。そうしない限りは、何回も何回もぶつかっていっては向きを変えたり速さを変えたりする、そのある意味滑稽とさえいえるような姿が、人間らしい学問している姿なんかな、と思います。

5.まとめと考察

 以上の考察から、冒頭で述べた教育の共時性は力積、学問の通時性は反発係数にそれぞれ帰着されたのではないかと思います。特に、反発係数は「衝突」という瞬間的意志変化、言いかえると、時間に依存しない意志変化をもたらすものについてであり、これが通時性を重視したときの、自然の心理的運動についての示唆になっているかもしれません。

 いずれしろ、厳密に定義された中での力学の諸法則と、それに単にならってモデル化したものでは理論の精度が全く異なることは言うまでもありません。しかし、例えば運動量保存の話題などは、自然の心理的運動がどうあるべきであるかについて、すこしばかり示唆を与えてくれるものかもしれないし、完全ではなくとも似たところがあるように思われます。

 現実の教育は主に経験則から、不完全な方法論のコピーを頼りに行っているように思われます。素晴らしい先生に教えられたからといって、その生徒すべてが素晴らしい先生になるとは限りません。むしろ、素晴らしい先生は希少なものかもしれません。「あるべき」教育の理想が何かについては、心理的な教育以外の要因、つまり歴史だとか科学的根拠だとかが絡んできますし、一概に理論を構築することは難しいと思います。しかし、教育哲学的な部分、つまり素晴らしい先生に共通する部分というのは、何かしらあるはずではないかとも思われます。

 自然な運動は、合理的で美しくすらあります。心の方も、まったく自然に美しく合理的に動けば、その心理的運動は人々をよりよく駆動するのではないか、という直観があります。少なくとも、真理を探して歩くのが好きな人間は、自然から学びとる姿勢で考察をすることを重視しなくてはならないのではないでしょうか。

 ここに挙げた比較は、必ずしも説得力のあるものだとは言いにくいかもしれませんが、子供を教育することにおいて影響力の強いひとたちは、十分に理想に近づくような方向で研究を進めていってもらいたいものです。

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