学問という文化と協力
この記事は哲太が書きました。
学問、学問といいますけど、学問はいったい何をするものなのでしょうか。今の世の中、量子物理学や教育心理学、応用生命医科学、社会哲学、材料力学などなど、~学とつくものなど星の数ほどあります。星の数というと大体10の20乗以上のオーダーになりますから、それは嘘です。
それはそうとしても、たくさんあります。それだけたくさんあるなら、何をやっても学問になるかと言われるとそうでもないようです。そう呼ばれるためには、形式があって、論文を出したり学会に所属したりということです。それは多岐に渡っていて、文化的です。これは料理が文化的なのと似ています。誰でもが料理はできるけれども、料理の世界に入るというのは雰囲気が違うのと似ていて、誰でもが学問はできるけれども、学問の世界に入るというのは雰囲気が違います。
文化の枠組みの中で活動するということは、その文化の歴史の最先端に立つということです。したがって、その錚々たる歴史を登って行かなくてはならないことになります。いや、もう登り始めているのです。これは、義務教育というシステムの効果です。とても頂上までは行かなくとも、ちょっと服装と道具くらいを調えて軽く散歩してみる。そのおかげで、字は読める、計算はできる、いろいろと便利なわけです。
そう、本来そこから始まっているはずなのです。これが分かると嬉しいな、そういうことを調べるのが学問の役割だった。問い、学ぶということ。
学問という文化が発展するにつれ、その歴史は積み重ねられていき、いろいろなことが分かってきました。その歴史の中ではすごく偉い人がたくさん出て、人類の生き方は変わってきました。それにつれて、文化レベルは高くなっていき、内容はどんどん高度になってきました。また、膨大な数の人が関わることによって、分野はどんどん分かれていきました。なぜなら、みんな違うことに興味があるからです。
料理に例えていうなら、元々は火をおこせることを発明して「米がめっちゃおいしい!」とか言ってたのに、今じゃあ”フランス料理(ヌーベルキュイジーヌ)―肉料理―シャラン産鴨ロースのポワレオレンジソースういきょうの香り”みたいなレベルになってしまっているわけです。料理の文化は、ものをおいしく食べる文化です。それは昔も今も変わっていません。学問の文化は、考えて学ぶ文化です。それは昔も今も変わっていない、と思われます。
なので、学問をするというためには、突き詰めなくてはいけません。歴史の最先端に立たなくてはいかんのです。あらしかし、歴史というものの性質上、既に最先端に立っています。立ってしまっているのです。それは、現在に生きている以上仕方ありません。
文化はいつでもそうです。後から入れてもらうしかないのです。でも、基準ラインはみんな一緒。消極的に言えば先輩よりがんばらなくてはいけないのですから、大変です。積極的に言えば自分が歴史の最先端に立っています。もうひとつ、いいことがあります。それは点数が付かないことです。比べようもないのですから、負けようもありません。勝った負けたは自分が決めることです。勝ったと思ったらそこで発展はストップ、負けたと思ったらもっとがんばらなくてはいけない。
勝負はしなくていいと思うのです。別に最初から敵はいなかったんですから。より発展するためにはみんなで協力した方がいいに決まっています。分からないことはたくさんあります。研鑽しあうことが必要でも、敵はいません。起源を考えれば、当たり前のようにそのはずなのですが、なかなかそうもいかないのが現状のようです。協力することが当たり前になるように、変化していかなくてはいかんと思います。
| 固定リンク
「0.学問一般」カテゴリの記事
- 物と心のあいだ(2009.10.07)
- 教育の力学モデルと「運動の3法則」との対照的関係(2009.03.29)
- 学問という文化と協力(2009.03.26)
- 概念の定義について(2007.11.11)


コメント
協力しなきゃいけないのに類似研究の論文発表を競ってお互い隠してしまうのはなぜだろう。
投稿: tigric | 2009.03.28 13:17
それは相手と高さの差が無かったら流れ込んでくるものが無いから。逆に、流れ出ていくものもあると思うんだけど。
投稿: 哲太 | 2009.03.28 16:07