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2009.03.26

ソシュール再考

この記事は哲太が書きました。

 言語のことが気になり、ソシュールを勉強しようと思い始めてから約1年経ちました。フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)は一般言語学のさきがけとして有名な言語学者です。それまでは個別の言語の性質を調べ、また各言語間の比較をすることが主流だった中で、言語そのものの一般的な構造について考察をしました。

 人間の心の動きを追うには、言語の性質を調べることは重要です。ソシュールの具体的なデータの観察に基づく考察を追う中で、さらにアイデアを出していければと思います。

1冊ある程度精読できたかなと思いますので、これを横におきつつ考察を加えていきたいと思います。参考文献は『ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート』(影浦峡/田中久美子訳、東京大学出版会、1986) です。講義の要旨をまとめた『一般言語学講義』(小林英夫訳、岩波書店、1986) とは異なり、コンスタンタンというひとりの学生の講義ノートの訳です。一般的に言語学や哲学で理解されているソシュールの思想はどうか、ということではなく、必ずしも簡潔にまとまっていないソシュールの生の言葉からアイデアをもらいたいです。

1.諸言語

 この本は 「I. 諸言語」 と 「II. 言語」 に分かれています。I.では普通に手に取ることのできる具体的な言語(日本語や英語)について調べ、II.では言語の構造的側面を調べています。大まかには、I.で言語の時間的(通時的)側面、II.で言語の構造的(共時的)側面を扱います。

 ひとつの考えの区切りがつくごとに、()で改めて見出しをつけています。かなりの項数で、考察のかなりの部分を前述の本に依るものの、網羅的に書き上げたものではないのでご注意ください。あくまで、僕の主観とアイデアと思ってください。

(1)民族の特性としての言語:時間の中で変化する
①変化に相対的に抵抗する力(地元贔屓の力)
②一様に向かう力(交雑の力)

 言語の多様性は地理的なもの(例:隣の県同士の方言)と時間的なもの(例:流行語の歴史的変遷)に分けることが重要です。これらを混ぜ合わせて考えてはいけません。今は時間的多様性について考えます。

 ①の力は近しい人と言語が似通っていくことに影響します。これは近しい人とのコミュニケーションによるものです。局所的にだけ言語が収束していくのです。したがって①の力は②の力に帰着することができます。ある近しい人たちのグループを見た時には、①は一様に向かう力のことです。コミュニケーションの系が閉じているかどうかが重要であり、どこまでも広い系を考えれば、すべての力は①であるともいえるかもしれませんが、簡単に定式化できる系は閉じた系なのです。すべての巨視的時間的変化は、微視的なものに還元できなくてはなりません。

(2)地理的分化は時間変化に還元される

 地理的分化は地域という単位によりますが、この単位の中で最小なのは個人です。よって微視的には地理的分化は1人1人の言語の差異ということができます。初期時刻t0においてAとBの言語La,Lbが一致していたとすれば、

  La(t0) = Lb(t0)

 であり、微少時間dt後においてLaは変化し、Lbは変化しなかったとすると、

  La(t0+dt) ≠ Lb(t0+dt) = Lb(t0)

 となります。このdt後の状態を現在と見れば、この差異 | La(t0+dt) - Lb(t0+dt) |は時間的変化によるものといえます。したがって、言語の変化は時の流れを前提しています。すなわち、Lは時間の関数です。

(3)言語の進化
→一定期間を経ると言語はもはや同じではない

 コミュニケーションの慣性によるものと考えられるでしょう。(参考:「言語の時間変化と定常状態」) 時間変化にはコミュニケーションを伴わなくてはなりません。コミュニケーションはひとたび始まれば、慣性によって継続されていきます。コミュニケーションへの欲求とも呼べると思います。さらに言えば、(1)②交雑の力に帰着できるものだと思います。

(4)連続的な推移

 コミュニケーションのたびに言語が変化するとすれば、時間変化のための単位時間を1回のコミュニケーションに要する時間とできます。ある期間内での変化を考えます。このときコミュニケーション回数を十分に大きくとれば言語は時間の連続関数です。このなめらかに変化する言語を、文法学者の扱うことのできる静止した言語に対比させて、生きた言語と呼ぶことがあります。ただし、僕の考えるコミュニケーションの観点からすると、本を読んだりすることも”本とのコミュニケーション”ととらえたいので、必ずしも文語が固定されたものだと強調する必要はないかもしれません。しかし、文語として現れる言語の状態は共通語としての側面が有用であるかもしれません。

(5)地理的な分布

 地理的にごく近い2つの言語は互いによく似ているはずでしょう。これは地元贔屓の力にも関連することですが、近い人たちはコミュニケーションが容易である程度にだけは言語が似通っていなければなりません。したがって、巨視的な言語の地理的分布は連続的に変化していなくてはなりません。「旅人が、一方の端から他方の端へと、毎日その地点でそこの方言を身につけながら旅するならば、その途上ではわずかな変化に気づくだけで、いつの間にかもはや自分が理解できない言語の中に入ることになるでしょう。」(p37-37,『ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート』,2007)

2.言語

(6)発話の回路
A【イメージ/概念】
(発話)   (聴覚)
↓      ↑
(聴覚)   (発話)
B【イメージ/概念】

 言語による会話では、音声を媒介とする発話と聞き取りの回路、つまりループ構造を考えることができます。AさんはBさんの発話を耳で聞き取り、それに引き続いて一連の聴覚イメージを 描きます。これは、Bさんの言っていることがどこで途切れているかを区別するための単位です。(Bさん「うどんりんごまずい」→Aさん<うどんのイメー ジ><りんごのイメージ><まずいのイメージ>。Aさんが”どんりん”という音からイメージを描くことはできません。)
 この聴覚イメージの意味作用により、概念が想起されます。【イメージ/概念】を規則的に連携させる操作を表す部分は、回路の中では聴覚から概念へと至る部分がそれを表します。

(7)言語の領域:発話の回路の受容部かつ連携部

 聴覚により聞き取り、それを概念と連携させる部分に言語の担当する領域があります。これを受容部と呼ぶことができるでしょう。また、それに対応して発話の部分を実践部と呼ぶことができます。

(8)均質という性質
【イメージ/概念】の結びつき:ひとつひとつのイメージや概念は等価なもの

 音から描くイメージ、またそれと結びつく概念はともに心理的なものです。したがって、どのイメージがどのイメージを包括する、といった議論はすることができません。イメージも概念も、音を受容し概念を連携させる言語から見ればどれも等価です。要素として対等な立ち位置なのです。

(9)聴覚イメージは固定されたイメージに変換できる

 そうでなくては、いいたいことのイメージを実際に発話することができません。聞き取り(受容)においては、発話されたものは単なる音声でしかな く、それを心理的なイメージに分割しました。発話においては、明確な意図を持って概念と結びつくべき聴覚イメージを発話語(固定された単語)に変換します。

(10)言語に関連するものは固定することができる

 聴覚イメージや概念は写真のイメージのように貯蔵され、発語を介して呼び出されます。受容部において言語を形成し、実践部において言語を呼び出すということができます。この貯蔵できるという特徴のおかげで、文法という枠組みが有用なものとなります。

(11)言語記号
「二つのとても異なるものが頭の中で結び付いた上にあるもの」
(p94,『ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート』,2007)

 ある人間が主体となって描き出した聴覚イメージと概念、これはともに心理的な音の刻印ですが、これを結びつけるものの上に言語記号がかぶさることになるでしょう。ここで、記号という語は概念からと聴覚イメージからと両方の観点から扱うべきものです。

(12)第1原理:言語記号は恣意的である(恣意性)

 りんごという音の聴覚イメージは”りんごの概念”と結びつくべきものと体感しますが、うどんという音で”りんごの概念”を想起するひとがいたとし ても言語学的には問題ありません。事実、アメリカ人はappleという音の聴覚イメージで我々の思い描く”りんごの概念”とほぼ同じものを想起すると考え られています。つまり、り+ん+ごという音の内的なつながりが”りんごの概念”と結びつくべき条件ではないのです。与えられる記号は心理的なものなのです。

(13)第2原理:言語記号の広がりは1次的である(線形性)

 こうしていくら長い文章を書いていても、これを読み上げたときには前から順番につらなっていく要素の連鎖です。自然な単位として単語で区切るとす るなら、いくら長い文章も単語の(1次元的、直線的な)列だといえます。相手の言ったことを聞きとるとき、この要素の列に自然と分解して理解することにな ります。ひとつひとつの要素はある特定の聴覚イメージを描き出します。
 言語記号の作用として写像を考えたとき、この原理は言語写像の線形性ということができるかもしれません。

(14)概念の連鎖と聴覚上の連鎖とを重ね合わせる

 相手の発話音を自然と分割したときの分解の仕方は”あるべき概念の分割”に本当に一致しているかを常に点検し続けることは、言語の単位を 確定させるための唯一の方法です。正しい分割のための大量の発話例を点検することで、例外のないような概念と音の分割を定めようと努力しましょう。音の要素の「自然な」分割だけが区切りの境界を定めるのではなく、その結果現れるべき概念の分割が結局のところその自然さを導き出しているのです。発話の回路は ループしており、分割の定義は再帰的です。

(15)言語における絶対的な恣意性と相対的な恣意性
①絶対的恣意性:どのシニフィアンにどのシニフィエが結びついてもよい(語彙的)
②相対的恣意性:言語による結びつき方の傾向の指定がある(文法的)

 ①、②の含まれる割合は、ある言語と別の言語を比べる上での一つの特徴です。恣意性の度合は無根拠性ということができます。例えば”5”という音 から5の聴覚イメージと5の概念を結びつける理由はなく、完全に無根拠なものといえます。しかし、”12”の意味を想起するときには、”1”と”2”を引 きずって想起するという意味で、完全に無根拠な結びつき方ではないと言えます。

(16)言語の進化の全動向:「完全に無根拠であるものと相対的に根拠のあるものとの相対的な量の変化」(p112,同)

 無根拠なものは語そのものが独立して概念をなし、根拠のあるものは語が他の語を同時想起させます。すべてが無根拠であれば、概念と概念のつながり はないことになり、これは現実にあてはまらないので、根拠のあるものの比率がゼロになることはありえません。逆に、すべての語に根拠があれば、ある語はすべての概念と関係し合うということであり、全語についてこれが成り立つのであれば、この言語は一様なものとなります。これは概念の区別ができないというこ とです。したがって、無根拠なものの比率がゼロということもありえません。これら2つの比率は概念のつながりの状態を表すものであり、この変化が言語の進化を決めるということです。
 根拠のある語をひとつにまとめてグループを作ることができるでしょう。すべての語は1語以上からなるグループに分けることができます。ちなみに、このグループ分けは大量の発話例を解析することで、実際に観察できる現象です。この根拠をどういう観点で分類するかは自由度があります。統語的、意味的、音韻的などです。

(17)項(terme):聴覚イメージを喚起する単位

 自然に考えられるとして、語があげられるでしょう。りんごという語は「りんごばななめろん」という発話において明らかに区別すべき音節です。ただし、項は語に限りません。”やわらかい時計”(サルバドール・ダリ、「空のキャンバス」 の画像より引用)という発話が、やわらかさでも時計でもない特有の聴覚イメージを呼び出し得ます。ひとつの差異のかたまりとして浮き彫りにされる音声、そ れを項として、発話におけるシニフィアンを呼び出すための単位とできます。今まで語と呼んできた、言葉の単位のようなものを、項と呼ぶことができるでしょう。

 今挙げた例は、音韻的な根拠と意味的な根拠を混ぜて考察しています。つまり、どう音声が構成されているかという段階とその意味がなんであるかの段階を混ぜています。しかし、どういったものにせよ、それは1つの項を確定させるための根拠になります。

(18)項同士の関係はシニフィアンとシニフィエの関係に帰着される

 項と項を比較するためには、意味論としては項から引き出される概念を比較しなければならないので、シニフィアンとシニフィエの関係の差異が項同士の関係であるといえるでしょう。

(19)言語は「どんなに遡っても、その時点より前から引き継いだ遺産」(p123,同)

 相対的に根拠のあるものの割合がゼロにならないとは、言いかえれば、文法的社会的に規定された枠組みの中にしか言語はないということです。枠組みは時間によって基本的に不変であるような性質を持っていますので、変化があるとしても、それは直前の枠組みを少し変化させたものになるでしょう。したがって、言語はなめらかに変化する。ここでいうなめらかな変化とは、時間について微分可能であるということです。変化の傾向の大きさという量が考えられます。
 このことは言語が恣意的であるということから、ちょっと違和感のあることだと思います。心理的なシニフィアンの恣意性は、言語の形式(音や文法)上でしか発揮されません。

(20)同時性の軸と継起性の軸

 ある時刻における項同士の関係と、その関係が時間によってどう変化するのかを分けて考えなくてはなりません。継起性、つまり時間軸に沿った変化については、前述のように考えます。同時性については、次に書く、価値と同義です。

(21)価値(valeur)

 あるものの価値はどうやって定まるでしょうか。ひとつには、「それで革のコートを買 える」ということができます。同じ価値を持っているものと交換できるのです。もうひとつには、「それは5万円だ」ということができます。3万円よりも高 く、10万円よりも安いという尺度です。前者の関係は聴覚イメージ(シニフィアン)が概念(シニフィエ)と対応付けられるという関係であり、後者の関係は 言語のシステム全体において項同士の(心理的イメージとしての)距離がどれだけ離れているかという関係です。(17)により、後者の関係は前者の関係に帰着されるものですから、前者つまりシニフィアンとシニフィエの関係だけに着目すればよいことになります。この関係はある時刻に固有なものです。聴覚イメー ジと概念は刻一刻と変化して対応付けられていきます(恣意性)。したがって、価値は同時性は類義語だといえます。

(22)共時態と通時態

 同時性の下での言語の状態を共時態、継起性の下で言語の展開する期間を通時態と呼ぶことができるでしょう。ある言語の通時態を考えれば、共時態は項におけるシニフィアンとシニフィエの関係は平衡点に あると言えます。したがって、言語の状態、すなわち価値のシステムの平衡状態が共時態をなすのです。もしくは、1枚の紙の表をシニフィアン裏をシニフィエ と例えれば、紙を表と裏から押し合っている力が釣り合っている場合に、言語の状態の静的な側面をとらえることができると言えるでしょう。

(23)「状態=項の偶然の状態」(p141,同)

 (19)で見たように、ある短い期間でみた言語の状態の変化は微小です。これは、言語の状態の変化が微視的な項におけるシニフィアンとシニフィエ の関係が変化することによってのみ、言語の状態が変化するからです。記号の恣意性より、この関係は必然のものではなく偶発的な性格を持ちます。ただ し、(19)より完全に自由なものではないことに注意します。これらのことを考えれば、継起性の軸に沿った言語の状態は、確率的に生起する項の群れの連続 と見ることができます。「偶然の状態が生起し、別のものにとって代わられるのです」(p141、同)

(24)”何も音が無い”ことに対応する概念があり得る

 これはソシュールによる例を見た方がよいでしょう。ハンガリー語において女はzenaであり、

 対格:zenon、主格:zeny、属格複数形:zen

 です。ハンガリー語では属格複数形の記号は省略されます。省略された無音と属格複数形という概念が対応するのです。このことから、シニフィアンとシニフィエにおける関係は単射ではないといえます。

(25)チェスの例
1.駒の価値がシステムの中での相対的な位置だけから決められる
2.駒の価値のよりどころは一時的なシステムにある
3.システムの状態の移行は駒の1つの移動からなる

 チェスが言語の状態をうまくあらわしているという例です。駒の価値は、他の駒に対してどの位置にいるか、また盤上のどの位置にいるかという、相対 的な関係の中でのみ決定されています。一時的なシステムに価値をおいているところは、さきほど(21)でみた議論です。システムの状態の移行については (19)や(23)の議論で対応がつかめるのではないかと思います。ここで重要なのは、変化が駒のひとつだけであったにも関わらず、システムの状態の変化 はその局所的な部分だけにとどまってはいないということです。変化の前と後は、基本的には全く別の状態です。「前の平衡点Aとその次の平衡点Bは、まった く別のもの」(p145,同)なのです。

(26)変化は常に発話の現象から始まる

 「あらゆる種類の変化が個人により試されます(変化の様子見)。変化は、集団に認められた時に限って言語的な事実になります。」(p149,同)  とあるとおり、すべての言語の変化は個人による発話という1つの試行の集積によって起こります。ソシュールにおける言語とはある地域に共通する言語 (langues)でした。(諸言語と呼ばれた言語です。) 僕は言語が社会的なものであると同時に、個人にかけがえなく存在しているような気がし てならないのです。地域の方言をせばめていって、その最小のものを取ったとき、それは個人です。システムの中に個人が位置付けられて初めて価値の体系をな すのですが、個人の中にはシステムがあるのではないでしょうか。

(27)静態言語学と進化的言語学

 共時態を扱う静態言語学と、通時態を扱う進化的言語学を区別せねばならないとソシュールはいいます。言語の構造においてこれらを分けて考えることはやはり重要だと思われます。これらを時空間における状態システムのようなものとして扱うということが考えられます。

(29)語をシステムの単位としてとらえる必然性

 語は他の語との関係がなければ存立し得ません。むしろ、他の語との関連の中で1つの語のかたちが定まってきたといったほうがいいでしょう。したがって、項は普通”語”になります。ただし、項ということばをすぐに語と等しいものだと思い込んでしまうことは避けねばなりません。

 この必然性のひとつの根拠は、単語と句では従う統語論的原理が異なることが挙げられます。絶対的なものではありませんが、単語と句を区別することには少なくとも意味があります。

(30)連辞的配列と連合的配列

 連辞的配列は、連続する複数の項、すなわちシステムの単位が互いにまた全体と関係していくものです。これは言語記号の線形性、つまり1次元的に線上に列として広がっていく性質に基づいた関係です。
 連合的配列は、連辞的配列が横の関係とすれば、縦の関係にあたるものです。互いに似た音から想起されるシニフィアン同士の関係(たとえば柿と滝)や、分野ともいうべきシニフィエ同士のつながり(たとえば教育と教育者)です。

(31)文脈

 語を連辞的に前後から取り囲むものです。文章のひとつひとつが連辞的であり、これらが集まって文脈が構成されます。

(32)記憶

 連合的関係は記憶により保持されます。過去の参照が常に必要です。

(33)項が価値を持つ:項により他の価値と区別されている

 システムから項が導かれ、項から価値が導かれます。価値のある状態が、シニフィアンとシニフィエの結合を誘い出します。「シニフィアンとシニフィ エは、あるきまった価値のもとに結合する契約を交わし」(p173,同)ているのです。シニフィアンもシニフィエもそれだけでは無意味です。”価値!”と いう呼びかけの下に組み合わせられなければ価値がないのです。
 聴覚イメージcherから概念「cher」が想起されるという表し方は、cherの持つ価値が、「フランス語というシステムにおいて、他の行との対比によって区別されていることを言い表す一つのやり方にすぎません。」(p174,同) 

(34)言語の状態には差異しかない

 2つの語に音の差異がなければ、聴覚イメージを区別することができず、それゆえ意味作用によっても2つの概念を区別することはできません。フラン ス語でのaller,allantは英語ではどちらもgoingであって、英語ではこの2つの概念は区別できません。この主張の根源は記号の恣意性です。相対的に 根拠があると思われる関係は、項の間の(連辞的または連合的)相互関係による恣意性の限定としてとらえることができます。

3.付け加えるべき考察

 ここまでで、ほぼ大まかな内容を見ることができたと思います。これはあくまでソシュールの解説ではなく、その考え方を振り返ると同時にアイデアをもらうためです。 ソシュールを全く読んだことが無い人には変な誤解をされると困るなあとは思いますが、個人における言語活動における記号の恣意性の力強さはすごいですからね。仕方ない、かな。

 目標として、数理的なモデルということがあります。そのために、考察はできるだけ数理的な見方がしやすいようにしました。それを差し引いても、ソシュール自身は明確な数学的観点を持って言語を考察していたように思われます。この講義が行われた1911年は、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)による特殊相対性理論の論文の発表年の1905年から僅かの後であり、時間と空間についてのパラダイムが大きく変化していく真っ最中でした。この中で、ソシュールは時間と空間のかかわりと区別を大いにして、この講義に臨んだのではないでしょうか。

 特にその影響が観察されるのは、(22)や(27)で見たように、時間軸に沿ったものと時間軸を横断するものを区別しなければならない、と繰り返し言っていることです。アインシュタインの理論は、時間と空間の概念を再構成し、さらにそれを融合させて時空間という概念を作るものでした。これを受けて、ソシュールは時間と空間の根本的な性質の違いを重視したのではないかと思います。

 また、相対的な価値、というものも重要になっていたと思います。(25)のチェスの例では、空間上に位置した項の駒たちが、その相対的な運動の速度の中で価値を決め合っているような印象を持ちました。逆に、(19)のように、変化は常にちょっとずつ起きる、つまり時間に関してはなめらかに変化していくということも、同様に強調されていました。

 一般に、(12)の言語の恣意性ばかりが引用されるソシュールですが、空間・時間に関しての観察力は大いに評価されなくてはいけない部分だと思います。

 訳語は原則として「ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート」(東京大学出版、2007)に従っています。小林英夫による訳書 や、丸山圭三郎によるソシュール解説は大変素晴らしいものと聞いております。しかし、今回は一般的なソシュールの思想を理解したいと思うと同時に、他の狙 いもあり、また単純に縁があったため、この新しい本を読み込みました。

 ソシュールの考え方になぜ注目するかというと、物理にも共通するような実証主義的な姿勢が見られるからです。もともと言語学は実験・データ分析か ら始まったものですから当然といえばそうなのですが。現実のデータから考察が始まっているかどうかは、その理論の耐久性の面で重要です。ソシュールが 100年も注目し続けられるのは、現実を見続けていたからではないのでしょうか。ちょうど300年もニュートンが学び続けられているのと同様に。

 

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