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2009.05.25

言葉と本居宣長

この記事は哲太が書きました。

 「考えるヒント」(小林秀雄、文春文庫、2004)という小林秀雄の評論集があり、この中に「言葉」という節があります。『本居宣長に、「姿ハ似ガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある』から始まるこの短い評論は、言葉の「姿」と言葉の「意」について本居宣長の批評を解説するものです。特に、言葉の作用を歌を題材に考察します。

 ソシュールが言語学の中で引き合いに出される際によく言われるのが記号の恣意性です。(参考「ソシュール再考」)この記号の恣意性というのは、一見すると意味されているもの(シニフィエ)が何であるにせよ、それを意味するもの(シニフィアン)は制限されないということで、姿と意が恣意的に、つまり自由に結び付けられるということに思えます。こう考えると、実際に現れている言葉の姿に価値はなく、その意こそが大事であり、これを理解することが重要であるということになります。注意すべきなのは、ソシュールはまた、ある語の価値はシステムの中の相対的な位置関係、つまり他の語との兼ね合いによってのみ決まるとも言っていることです。姿と意の結びつきは任意だけれども、姿の価値は姿同士の相対的な関係によって決まるということで、単純に上のように言ってしまうことはできません。

 小林英夫が注意を喚起しているのは、言葉というものは恐ろしいということに気づくことは難しいということです。言葉というのはいつも独り歩きしがちであるという感覚を持っている人には、それほど驚くことではないかもしれません。実際に身近な対象であることから、言葉の微妙さ、難しさは理解されにくいところがあります。しかし、考えてみると、自分の言葉がどう飛び回り、はたらき、また他人の言葉がどう自分に着地し、受け止められていくべきかということは考えるに値することです。

 「考えるヒント」から考えたことをひとつまとめてみたいと思います。

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