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<title>学問に関するひらめき電球</title>
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<description>あなたの思いつきをみんなで共有しませんか？まずはコメントから。
一緒に記事を書きましょう！（現在メンバーは 3 人です。）</description>
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<title>物と心のあいだ</title>
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<description>自分が見ていることと、自分をみているものとの関係はどうなっているだろう。意識現象の在り方と物理現象の在り方。からだを介在して。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;em&gt;この記事は哲太が書きました。&lt;/em&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　我々の意識の状態を担うものには脳のはたらきがあります。これは神経細胞ニューロンのスパイクと呼ばれる発火現象のあつまりです。生理学上のメカニズムは複雑です。からだの状態は物理学と化学によって分析され、化学反応と物理現象のあつまりとして理解されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　からだは必要なものです。その指先が我が子のほほに触れるために。また、完璧な条件のうちに弾かれたピアノの一音を聞くために。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　生物学はからだを細胞に分けます。６０兆個の細胞はからだそのものであり、からだを二分して３０兆個ずつにするとからだではなくなります。分たれた細胞はその活動を一斉にやめ、からだは死ぬのでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ニューロンのスパイクは個別の神経細胞について計測されます。電位を計測するために、神経細胞のすぐ近くに電極を持っていってニューロンが動き出すのを待つのです。計測器はからだの一番近くに行って、からだの動きを精一杯計ります。計測器はからだと一つになることはできません。あと少し、その距離は小さいのでしょうか。それは説明されなくともよいのではないか。それでもそれを説明しようとすると、一生近づき続けるけれど決して超えられない何かにはまり込んでしまうのではないか。そんな一生も良いかもしれないと思う人だけが、果てない言葉の中で生きられるのかもしれないと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　同じ土俵で生きていくなら、みんな仲良く生きられた方が良い。同じ説明するなら、よい言葉を選んだほうがよい。それを少しでも簡単にするために、手助けが出来たら良いと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今自己にとって一番生き生きとした生活と、それを間近で計測するものたちとの関係は切れないものです。科学や学問は既に溶け込んで、この関係を形作っています。この関係は、自己のからだの上からの見方と、外から眺めた見方があり得ます。双方は、自己自身を鏡のようにして、互いに関係しあっていなくてなりません。この関係について考えてみたいと思います。&lt;/p&gt;　&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;１．からだの上で見たとき&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自己というのは大事にしたい区分です。からだを支える細胞たちはそれぞれの生活があり、個性があります。僕は、これらの細胞とある他人を生物学の区別以上には区別できません。自己とその外側は区別できるように思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それでも、それは６０兆個の細胞のあつまりとしてのからだとその外側という区別ではないと思います。これは普段からだを構成している細胞を軽んじているわけではありません。その時々にからだが思ったとおりに動かないことはよくありますし、自分のまわりにある空気すべてが自分のからだに思われることもあります。それで、からだの内側から見たとき、ではなくてからだの上で見たとき、としています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このような区分は心理学的な意識現象だと思います。今思うから実際にそうであるのが意識の現象です。「客観的にみると」という言い方がよくされますが、客観ということは、からだの外側からの見方ですから後で扱うべきです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そういうわけで、自己とその外側の区別は心理学的に決まるものと思います。このような自己はものごとを経験します。見たり、話したり、食べたり。これらの経験はそれぞれ視覚科学や言語理論や分子生物学で説明されるべきものではなくて、心理学で説明されるべきものです。食べて、その結果どうなるであろうかということは、食べているその時には気にすることができません。もし、そのことを真剣に気にしているのであれば、味はせず、顎は動かず、ものを飲み込めたとしても、食べた気はせず、それは食べる経験をしたとは言えないものです。&lt;br /&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;br /&gt;２．からだの外側から見たとき&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　外側から見たときには、自己の範囲は観察しようがありませんから、生物学的な区分の中に「自己」がちょうどはまっていると考えるのが妥当でしょうか。生物学的な区分はからだの内側です。すべての経験はからだの物理現象を介して意識に反映されているはずです。意識現象にもっとも反映されるとされる器官が脳です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だから脳の動きを調べるのですが、何となく確信が持てずにいます。脳とは離れた場所の、たとえば指先の筋組織の物理現象が意識現象に反映されないことはどうして確かめられるでしょうか。からだの中に意識が満ち足りていてもいいのではないか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　脳の物理現象だけが意識現象に反映されるとしたら、心理学的自己は脳の中にはまっていると言わなくてならなくなります。そうすると、生物学的な外界と自己との区分は脳とその外側ということになります。それはいかにも寂しい。僕は、自分のからだは欲しいのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そうして、とにかく自分のからだの内側には意識が広がる可能性があるとしましょう。そうすると、脳の物理現象から意識現象を推定できるというのは強すぎる言い方だと思います。それでも、さまざまな意識現象に伴って、からだの他の器官より脳の活動が敏感にそれを反映しているということは確かです。脳は意識現象と強く関係していることは間違いないでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　シナプスの発火現象を電極で計測することをお話ししました。現在の計測の精度は、機器の技術的限界から、すばらしく精密だというレベルであるとは言えないようです。仮に、ほとんど神経細胞に影響を与えず、データを正確に計られる計測器が得られたとしましょう。このとき、脳が関係している意識現象については、正確に情報が得られるのでしょうか。このことが本題です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;３．物と心のあいだ&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　例えば、ピアノの音を聞くとします。現在の録音の技術は素晴らしいものであると思いますが、それでも人間が生で弾いた音とは差があります。さきほどの正確な計測器でこの音を計測します。そうすると、当然弾いた音と録音を再生した音とからは違うデータが得られます。録音技術の限界として、この正確な計測器で計った時に生で弾いた音と同じデータが得られることが考えられます。つまり、音としては誰が聞いても両者を区別できない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、一方は人間がその指先で持ってピアノに触れ、ハンマーが降りたことに伴った音、他方は人間が関与するとすれば再生ボタンを押したことに伴った音です。この違いは、からだの上から見たときには、圧倒的な経験の質的差があります。それでも、からだの外側から見たときには、この両者を区別することはできません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いくら技術が進歩し、物理現象をより正確に分析できるようになったとしても、経験としての意識現象の質的差を推定することはできないのではないでしょうか。そして、その質的差こそが意識現象に生き生きとした躍動感を与えるものなのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　我々はからだが必要です。完璧な条件のうちに弾かれたピアノの一音を聞くために。それは６０兆個の細胞からなっているものであり、これを分断することは生物学的死を意味します。それに伴って自己は失われるのでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それはピアノとピアノソナタの関係に似ているかもしれません。その曲はピアノが無ければ自由に震え、走り、伝わることができません。それでも、ピアノの鍵盤をいくら眺めていても、その曲がどんな曲かは分からないのです。ピアノ奏者にとっては、ピアノを介して跳ねまわる音々の様子が気になるのであり、その音の届くところすべてが自分の演奏です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もし自分がピアノを弾くとしたら、その時ピアノの前に座ってピアノに触れている、そのことを大事にしたいものだと思います。そして、ピアノを大事にする人と音を大事にする人と、両方に敬意を払いたいものだと思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>0.学問一般</dc:subject>

<dc:creator>ひらめき電球</dc:creator>
<dc:date>2009-10-07T03:20:56+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-49c6.html">
<title>予測市場と集合知の「実装」</title>
<link>http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-49c6.html</link>
<description>集合知をネットワークから引き出す技術は、現在の情報学にとって不可欠な要素である。予測市場を例にとって、集合知を実装することに関して少し考察をする。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;この記事は&lt;strong&gt;&lt;em&gt;哲太&lt;/em&gt;&lt;/strong&gt;が書きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　個人に分散した知的行為を１つの数値に集積するシステムという意味で、近年「集合知」という言葉が用いられるようになってきました。辞書の編纂をすべての人の知恵を合わせて行う『Wikipedia』や、ソースコードをウェブ上のすべての開発者で共有するオープンソースソフトウェアの概念など、現在のウェブにおいて、集合知を実装したシステムはもっとも重要であると思われます。Googleの検索アルゴリズムの重要な概念であるPageRankも大きい意味では集合知を用いていると考えられます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　近年徐々に規模を大きくしている集合知の実装システムに、株式市場のシステムの集合知の側面のみに着目して抽出したシステムである&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;予測市場&lt;/span&gt;があります。予測市場は株式市場における人々の経済行動における集合知に特化してこれを利用しています。今後多くの集合知を利用したシステムが出現すると考えられますが、予測市場を例として、そもそも集合知とはどういう性質をもつのか、実装における問題点は何か、などを考えてみたいと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;１．予測市場とは&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　予測市場(prediction
market)とは、株式市場を模した仮想システム内で予測の対象を”銘柄”として扱うことで、それらの”株価”の高低によって、その対象の実現可能性を
推測する仕組みです。この仕組みの原理はF. A. Hayek(1945)による、「市場の価格決定システムは各個人に分散した知識を集積する仕組みである」と
いう主張に基づくものと考えられます。これをシステム化したものが市場予測システムということになります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　具体的な”株価”の出力は以下のようにして得られます。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;
「サッカーの国際試合「FIFAクラブワールドカップ2007」の優勝チームを予測する場合、参加チーム──ACミラン、ボカ・ジュニアーズ、浦和レッズ
──を“銘柄”に見立てて仮想市場に上場させる。額面は各銘柄とも同額（例えば10ポイント）。「予測終了時には優勝銘柄に80ポイント、他銘柄に
0ポイントを払い戻す」などと設定する。&lt;br /&gt;
　同時に主催者は、参加者に対して仮想通貨を分配しておく。参加者はその仮想通貨を用いて、まず全銘柄のセットを購入。一定の参加者がセットを購入した時点で取引を開始する。後は株式市場と同じ要領で銘柄の売買を行う。ブックメーカーのような「賭け」とは異なる。&lt;br /&gt;
　実際の売買の様子はこんな感じだ。例えば、現在のACミランの株価が50ポイントだとする。もしあなたが予測する優勝チームがACミランである場合、同銘
柄を保有することで30ポイントの差益を期待できる（払い戻しが80ポイントであるため）。そこであなたは、50ポイント以上の価格でACミラン銘柄を注
文するだろう。そのように考える人が多ければ、市場原理によりACミランの株価が上昇することになる。結果的に均衡した株価が、出来事（ACミランの優
勝）の現実の予測値となる。」（『&lt;a href=&quot;http://www.nikkeibp.co.jp/style /biz/abc/newword/071120_26th/index.html&quot;&gt;時代を読む新語辞典&lt;/a&gt;』より引用）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;２．予測市場の例&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;２－１．はてなアイデア&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　『&lt;a href=&quot;http://i.hatena.ne.jp/&quot;&gt;はてなアイデア&lt;/a&gt;』とは、株式会社はてなにより２００５年頃から実装さ
れてきた予測市場システムです。ユーザーからの要望や不具合報告などの「アイデア」を”銘柄”とし、”株価”の高い要望を優先して改善、実装するという
試みです。細かなエラーの報告から新たなサービスの要望まで種々の「アイデア」があがっていますが、２００９年７月現在、６０００を超えるアイデアが実装
されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　ユーザが似たアイデア同士を結合させることができるなど、より効率的にユーザの要望を抽出するための仕組みが充実しています。サポートにかける企業側の労力
を抑えることを目的とした集合知の利用とみることができますが、この考え方に否定的な意見を持つはてなユーザもいるようです。ブログ「&lt;a href=&quot;http://d.hatena.ne.jp/hrkt0115311/20080515/1210835194&quot;&gt;どんなジレン
マ&lt;/a&gt;」
は「企業がすべきことをユーザーに負担させているように思える」ことを理由に「今の形のはてなアイデアだと、ユーザーが中途半端な形で巻き込まれてしまう
ように思う」としています。本来、企業が手仕事でやっていたユーザのサポートを自動化させたという側面でみると、手作業による製品から機械製品が主流に変更
していった昔を対比させて考えれば、手放しで喜ぶべきなのかは慎重に判断するべきと思われます。ただし、自動化の良い点があることは認めざるを得ません。仕事にむ
らのないこと、作業効率の良いことなどです。それを実現するために、人の声によるサポートの温もりやきめ細やかさなどを犠牲にしていることは忘れられて
はならないことでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;２－２．Prediction&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　『&lt;a href=&quot;http://prediction.jp/&quot;&gt;Prediction.jp&lt;/a&gt;』は株式会社Predictionによる、
ユーザ主導の総合ジャンルの予測市場システムです。「ベット」と
呼ばれる、ひとつの”銘柄”に対して不特定多数のユーザが仮想資金を賭け、それによって期日での配当金のオッズが変動する仕組みと、「ストック」呼ばれ
る、ひとつひとつの予測を株に見立てて参加者が売買する仕組みがあります。予測市場としてのシステムは後者です。ユーザは”銘柄”を作成することができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　現段階では、ひとつの”銘柄”に対して１００人以上が集まることは少なく、統計的に十分な標本数があるとは言えず、集合知としての精度は低いと思われます。確率の理論が適用できるだけのユーザ数が維持できるかどうかがコンテンツの質に大きく影響するといえるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　Prediction社の苅田あずさ社長は「昔アメリカでブログがはやり始めた頃、書いても儲かるわけでもないのに誰が書くんだと言われましたが、今では
ごらんのとおりの盛況です。予測市場も、案外当たるとか、市場に参加する楽しさが知られるようになれば、必ずしも現金につながらなくてもヒットするので
は」（&lt;a href=&quot;http://ascii.jp/elem/000/000/100/100092/&quot;&gt;「未来予測を売買する「予測市場」いよいよ日本上陸」&lt;/a&gt;より引用）と言います。ユーザの参加意欲を
「楽しさ」だけに依存する仕組みで統計的に十分な質のデータが集められるのかについては疑問点が残ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;３．予測市場の性能と問題点&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　集合知とは何か、そしてこれから何が起きるのかについて討議する場所を提供するものに、株式会社テックスタイルが主催する「&lt;a href=&quot;http://techstyle.jp/wocs/&quot;&gt;群衆の叡智サミッ
ト&lt;/a&gt;」があります。第３回目となる2009年度の開催が5月に行われ
たそうで、その規模は徐々に大きくなってきている模様。テーマとして掲げられる“群衆の叡智”とは、「&lt;a href=&quot;http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%A6%8B%E3%80%8D%E3%81%AF%E6%A1%88%E5%A4%96%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%84-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/4047915068/ref=sr_1_1?ie=UTF8&amp;amp;s=books&amp;amp;qid=1247499878&amp;amp;sr=8-1&quot;&gt;「みんなの意見」は案外正しい&lt;/a&gt;」で有名になった“Wisdom of
Crowds（WOC）”という概念によるもので、権威者による少数意見よりも、群集の多数の意見や情報のほうが正しい結論や予測になることが多いといっ
た考えに基づいています。これは上述の「集合知」という概念とほぼ同義だと考えられます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　第２回の開催である「群衆の叡智サミット（WOSC） 2008
Spring」のメインテーマは「みんなの意見」は専門家より正しいかということでした。そもそも群衆の叡智、集合知とは何なのか、また現在のシステムの問題点が議論されました。本稿では、&lt;a href=&quot;http://japan.cnet.com/news /media/story/0,2000056023,20373717,00.htm&quot;&gt;これらの議論の論点&lt;/a&gt;を振り返ることで、集合知の中でも予測市場という側面がどれだ
けの性能をもっており、何が問題であるのかを考察してみたいと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
&lt;strong&gt;３－１．群衆の中での個人の声&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;はてな執行役員CTOの伊藤直也氏は、集合知の利用の観点として以下の２点を挙げます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;&lt;li&gt;

統計的手法による情報の集約
&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;ソーシャルメディア的性格の認知
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;　つまり、ひとつは全体の平均的な情報は重要な情報であるという観点であり、もうひとつは個々人の意見とその交流が重要な情報であるという観点です。同氏
は「単純なブックマークだと、マスに近づいていく。個々人にカスタマイズしていくことが重要」と述べます。単純に多数決で一番多い意見が重要であるという結論は、あまりに情報というものの構造を簡単化して考えすぎていると思われます。予測市場はユーザ同士がお互いに相手の出方をうかがい、そこに駆け引きがある
ということが前提されているからこそ機能する。それを観察されているということを忘れて、自然に情報が交流しているしているときに、経済のモデルは一番よ
く働くと思われます。

&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
&lt;strong&gt;３－２．統計的手法はいつ適用されうるか&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　IBMビジネスコンサルティングサービスの伊藤久美氏は集合知が実現するための条件として、以下の４つを提示した。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
他人に左右されない「独立性」&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;
異質の集まりであるという「多様性」&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;結論を出すしくみを持つという「集約性」&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;
個別の情報源を持つという「分散性」&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;

&lt;p&gt;
　「独立性」の条件は、データを最適化処理する上で確率の理論を適用する際に必要です。つまり、統計的独立性のことを指しています。たとえば、画像処理などの物理的な処理においては、これらの仮定が妥当だというのはそう見当はずれとは思われない。ただし、前節で見たように、集合知を利用する上で意識されなければならないのは、特に予測市場においては、個人間の交流が本質的に全体の行動を制御する重要なパラメータになっていることです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　また、「集約性」の条件はシステムの性能としては重要な条件です。なぜならば、その結論の出し方が人々の意見を反映するものでなければならず、したがって、ユーザの意欲を高めるのに欠かせない条件となるからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　これらの観点から見ると、まじめに考えると、上で見た２つの例はどちらもこの条件を十分には満たしていないように思えます。特に、ユーザ数の不足から「独立性」「分散性」が
成り立つかどうかは確かでない。にもかかわらず、「集約性」は強く表面に出ているため、統計的に十分正しくない”結論”が出力され、誤った見解が流布するおそれがある。結論がひとたび提示されてしまえば、数学をやっていない人にとっては、信じるか信じないかは別にして、信頼性を調べることはできません。それをひとつの結果としてみるしかないのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;４．予測市場の今後と集合知&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　プレディクションの取締役谷川正剛氏は「当たる当たらないは別問題。参加者の意見をいかに集め、群衆の叡智を数値化することに意義がある」といいます。ウェブというネットワーク概念が発達した上で、集合知の抽出の技術はまだはじまったばかりです。集合知の効用が確からしいのは疑いようがないので、現段階で精度が低いからといって捨ててしまうには、あまりに味のある概念です。実際に集合知が実現されているかどうかなどの評価手法の確立が、マーケット上での
ビジネスの観点からは重要になってくるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　また、集合知という概念になじめばなじむほど、「群衆」は集合知の情報に依存するようになると考えられます。集合知というのは、良い情報と悪い情報とが混然一体となり膨大な量になってはじめて効用のあるものです。というのも、ランダムさの確からしさ、十分な乱雑性が無い中では、統計の理論は使えないからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　集合知の集合知といったものにどれだけ価値があるのかは分からないですが、少なくとも予測市場の範疇で考えれば、集合知によって良くも悪くもひとつの結論が出力されてしまう。一般の人の視点からは、何もない場所から急に結論が浮かび上がって見えるかも
しれない。システムと理論がその結論が十分正しいものであることを保証しなくてはならないと思います。統計の理論は十分数学的であると思われるが、コンテキストに依存するようなコミュニケーションの理論は数学的であるとは到底言える段階にはないと思われる。この分野の理論的充実が集合知の社会的流布と工学的応用には
欠かせないものと思う。いずれにせよ、数学とコンピュータ科学があまり得意でない人は、特に注意してこれらの情報をうまく扱わなければならないと思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>1-23.情報学</dc:subject>

<dc:creator>ひらめき電球</dc:creator>
<dc:date>2009-07-14T00:57:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-5339.html">
<title>言葉と本居宣長</title>
<link>http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-5339.html</link>
<description>小林英雄の「言葉」を題材に、姿は似せ難く、意は似せ易し、というセリフについて考察する。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は&lt;strong&gt;哲太&lt;/strong&gt;が書きました。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;iframe frameborder=&quot;0&quot; align=&quot;left&quot; scrolling=&quot;no&quot; marginheight=&quot;0&quot; marginwidth=&quot;0&quot; src=&quot;http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;amp;bc1=FFFFFF&amp;amp;IS2=1&amp;amp;bg1=FFFFFF&amp;amp;fc1=000000&amp;amp;lc1=0000FF&amp;amp;t=hirameki00-22&amp;amp;o=9&amp;amp;p=8&amp;amp;l=as1&amp;amp;m=amazon&amp;amp;f=ifr&amp;amp;asins=4167107120&quot; style=&quot;width: 120px; height: 240px;&quot;&gt; &lt;/iframe&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;a href=&quot;http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E7%A7%80%E9%9B%84/dp/4167107120&quot;&gt;考えるヒント&lt;/a&gt;」（小林秀雄、文春文庫、2004）という小林秀雄の評論集があり、この中に「言葉」という節があります。『本居宣長に、「姿ハ似ガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある』から始まるこの短い評論は、言葉の「姿」と言葉の「意」について本居宣長の批評を解説するものです。特に、言葉の作用を歌を題材に考察します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ソシュールが言語学の中で引き合いに出される際によく言われるのが記号の恣意性です。（参考「&lt;a href=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-b398.html&quot;&gt;ソシュール再考&lt;/a&gt;」）この記号の恣意性というのは、一見すると意味されているもの（シニフィエ）が何であるにせよ、それを意味するもの（シニフィアン）は制限されないということで、姿と意が恣意的に、つまり自由に結び付けられるということに思えます。こう考えると、実際に現れている言葉の姿に価値はなく、その意こそが大事であり、これを理解することが重要であるということになります。注意すべきなのは、ソシュールはまた、ある語の価値はシステムの中の相対的な位置関係、つまり他の語との兼ね合いによってのみ決まるとも言っていることです。姿と意の結びつきは任意だけれども、姿の価値は姿同士の相対的な関係によって決まるということで、単純に上のように言ってしまうことはできません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小林英夫が注意を喚起しているのは、言葉というものは恐ろしいということに気づくことは難しいということです。言葉というのはいつも独り歩きしがちであるという感覚を持っている人には、それほど驚くことではないかもしれません。実際に身近な対象であることから、言葉の微妙さ、難しさは理解されにくいところがあります。しかし、考えてみると、自分の言葉がどう飛び回り、はたらき、また他人の言葉がどう自分に着地し、受け止められていくべきかということは考えるに値することです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「考えるヒント」から考えたことをひとつまとめてみたいと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;１．大義&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　話は本居宣長の当時の人々が称賛していた大義という考え方に対する批判から始まります。ある人が宣長に対して、近頃の才人は古を学ぶと称して古歌を真似しているが、心は俗に近く誰でも似せ物と分かる、笑止な事であると言ったのに対して、宣長はこう答えました。私の詠んだ万葉風の歌を万葉集の中に混ぜておいたら、君にはこれを区別することができるか。どうせ、これが万葉の歌でこちらが自分の歌だと言えば、自分の歌を似せ物だと言うのだろう。姿は似せ難く、意は似せ易し。いわく、「姿詞の髣髴たるまで似せんには、もとより意を似せん事は何ぞ難からん。これらの難易をもわきまへぬ人の、いかでか似ると似ぬとをわきまへん。」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　当時の学者の中には、古を学ぶとは古の大義を学ぶことだという風潮がありました。上世の大義をわきまえぬ今世の薄俗な心でもって古歌の似せ物を詠んでも仕方がないという風なものです。世間がすごく利口で大義をわきまえているならば、この大義を表すにはなんと言ってもよいということになります。したがって、大義を学ぶことこそが学にとってもっとも有意義なことだということになるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　上で挙げた宣長の質問は言葉の不思議な性質を明らかにするものです。万葉の歌の調べ、つまり万葉風であるということ真似ることは難しくて、一般に不可能だけれども、今の世の人が誰も似せ物であることを看破できなければ、この真似は極限に達しているとみてよい。つまり、今の人々は、その歌がどのような意でつくられたかによらず、それから全く同じ感動を経験するということが起きます。これは、その感動の経験が古の大義から来るものだという当時の人々の常識を覆すものです。この言葉特有の性質について、宣長は先の質問によって言及しているのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　作者が区別できない二つの歌を前にして、こちらが本物でこちらが似せ物であるというためには、彼の大義という見方に宣長という言葉を導入して初めて言えます。なぜならば、彼の大義に対する信奉のもとでは、宣長の言葉によって詠まれた歌が大義に反するということからしか、似せ物であるということは言えないからです。したがって、歌の調べについて何も語っていない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ある時代の人の歌をよんだ時、その心を知るのは難しいのでしょうか。それはその言葉の調べを知るよりも簡単だというのが宣長の指摘です。意には姿がありません。だから、意を知るにあたって似ているとか似ていないとかの区別は無用ではないか。だからこそ、言葉が実用的である、つまり意志の疎通について便利なのです。意は似せ易い。姿が無いから、柔らかく透明に変化してからだに入ってくることができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　知るということで、全くの真似ができるようになるならば、意こそ真似がしやすいものです。大義をことさらに強調する才人たちの、口真似で得た古の大義から、今世の人の心の薄俗を言うのはおこがましい。薄俗な心のままに古を学ぼうと努めることのどれだけ難しいことか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だからこそ、コミュニケーションにおいては分かりやすい言葉の姿を選ぶことが重要になります。その調べを理解するのは非常に難しい。その意だけを伝えたいのであれば、それにはよく馴染んだ通信路を用いるに越したことはありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一方で、歌は言葉の中でももっとも厳しく姿を追求するものです。そこに言葉の働きの根本の法則が詰め込まれています。宣長いわく「歌は言辞の道なり。」 まず情があって詞があるのには間違いないけれども、詞は求めて得るものです。意を開放しただけでは歌にはならない。いかにととのえるか。いかに情が清算されるか。そのための姿を求めるのが歌です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;２．動作としての言葉&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一人で生活する者はなく、生活するとは人と交わることです。歌は人に聞かすものです。人が聞いても聞かなくてもよい、むしろ真実の歌はそのような事を考えない歌である。こう聞いたとき、「ひとわたりは、げにと聞ゆれども、歌といふ物の真の義をしらぬなり」というのが宣長の言です。無秩序に秩序をもたらそうとするのが言葉本来の働きであり、歌はそれを継承しているものだといいます。独りで合点している秩序は一人の人間からなる系でしか意味を成しません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　宣長は歌を礼に比べます。喪を哭するに礼があるとは、形式を守って泣けというのではありません。悲しみのうちにあって、喜びを求めることはできないけれども、悲しみをととのえることはできる。この工夫が礼です。秩序なく泣いては人々とともに悲しむことはできない。皆とともに悲しみ、この悲しみをととのえるために葬儀をします。この葬儀という生活の営みの中の礼と、動作から言葉が生まれてくることが対比されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　誰が悲しみを理解してから泣くでしょうか。まず動作として泣くということがあるのです。悲しみが切実になれば、動作には抑揚と拍子がつきます。動作は個人に固有なものですが、生活するということにおいて、人がこれを互いに似せ合おうとする努力を絶やさないというのは一般的なことです。これは無秩序に成員全員の間での秩序を与えるという言葉本来の働きと同じであるから、宣長はこの動作のある種の収束が歌の調べの発生であると考えました。こうした互いに似せあう努力から、似せ易い意が派生することは納得できます。ここに、姿は似せ難く、意は似せ易し、ということの理由があります。むしろ、意は似せること、つまり共通認識を持つことを目的として創出されてきたと見るべきです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;３．歌は味うものである&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　歌は読んで意を知るものではなく、味うものである。似せ難い姿を目の前にして、目で耳で鼻で舌で、その姿を感知して創り出すことが味うことです。ある情から生まれたその働きに心のうちで従ってみようとする、その努力です。感動させるという歌の働きは、その意にあるのではなく、その姿にあるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いずれにしても、手に取ることができるのは言葉だけです。言葉には姿があるので、手に取ることができます。しっかりと掴むことができるのに、知ることは難しく、知ることが容易いのはその意だというのは不思議な話です。自分のすぐそばにある言葉の姿を大切に味うことが、その言葉を理解するために必要なことでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　以上をもって、小林秀雄の論点にそった意見のまとめとしました。興味のある方は、短い文章ですので原著をあたってみてください。すぐ触れられるほど近くにある言葉の姿を、いかに大切にするべきかということは注目に値すると思いますし、話す言葉も聞く言葉も以前よりもっと大切に扱うためのヒントになるのではないかと思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>1-04.言語学</dc:subject>

<dc:creator>ひらめき電球</dc:creator>
<dc:date>2009-05-25T05:17:34+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-17d5.html">
<title>教育の力学モデルと「運動の３法則」との対照的関係</title>
<link>http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-17d5.html</link>
<description>教育と学問の対照性を述べた後、心・意志・教育を心理的運動として（定性的）力学モデルで記述する。このモデルで運動の３法則が定性的に成り立つことを見たあと、力学の諸法則から心理的運動のあるべき姿を探し、反発係数の話題から、学問と教育を心理的運動という側面からまとめて議論する。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は&lt;strong&gt;哲太&lt;/strong&gt;が書きました。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;１．教育と学問との対照的関係&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　学問というのは真理を探究するものであり、教育というのは人を教え育てることです。しかし、学問研究の中心のひとつである大学の教授は、教育と学問とを同時にするべき立場にある。どうも学問と教育は違う。しかし、その両方を１人が担えるとされている。教育学ということばはあるけれども、教育学は教育を自然現象のひとつとして学問する、学問分野のひとつです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育と学問が決定的に異なるところというのは、教育できるものというのは、基本的に考察・研究されたものだけだということです。けれども、教育が学問で得られた成果、つまり知識や智慧をまるごと伝えるだけかといわれると、それとも少し違う。それは勉強であって、勉強とは学問を学習、つまり学び習うことです。したがって、学問で得られた成果を最もよく知る研究者が教育者として最も適切だということにはなりません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育のプロフェッショナルは教育者であって、それが必ずしも研究者であるとは限りません。ただし、教育と学問の共通点は、その真理との距離が比較的近いことだと思います。一方は、科学的なものはもちろん道徳的倫理的な側面も含め、これまでの成果を「より広く」伝え、一方では、真理に「より近く」寄ろうとします。教育の目標は、あるときに存在するほとんどの人に真理を伝達することであり、学問の目標は、時間によらず存在するべき真理に漸近することです&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここにひとつの対照的関係があります。つまり、教育は時間を固定したときに、また学問は時間を普遍にしたときに、最も求める真理との関わりが大きくなります。言いかえると、教育は共時性が、学問は通時性が、最重要です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だから、教育というのは、個人の誰が教育されたかよりも、教育者の誰に教育されたか、もしくは「どんな」教育をされたかということが重要になります。特に、「どんな」の方に着目しますと、その時代に固有な教育者によって教育された、その時代の固有な人たち、という人間の集合ができる。その時代「風の」教育を受けた人たちになるわけです。教育の重要性というのはここに
あって、時間が固定されているときにもっとも重要な部分が見えるわけです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;font-weight: bold;&quot;&gt;２．&lt;/span&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;教育と加速度の対応関係についての考察&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　もっとも多くの人の同意を得られそうな辞書の定義から始めて、教育の性質を考えてみます。&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;教育&lt;/span&gt;という言葉を辞書で引いてみると、次のような文句が書かれている。&lt;/p&gt;


&lt;p&gt;　「他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;方向へ変化させる&lt;/span&gt;こと。広義には、&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;人間形成に作用するすべての精神的影響&lt;/span&gt;をいう。」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まず、&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;意志&lt;/span&gt;ということばを広い意味で定義しましょう。ここでは、哲学的な文脈を省いて、「人が何かをやろうとする能動的な思い」ぐらいの意味で考えます。この意味では、人間はそれぞれに意志を持っていて、これがその人そのものを肉体的、精神的に動かしていると感じられます。今の定義では、人間の「方向を変化させる」とあります。人間の変化は意志によると考えたのですから、教育は意志を変化させると言い換えることができます。変化の変化率を、力学の用語で加速度といいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　力学では、位置の変化を速度、速度の変化を加速度といいます。したがって、上述の対応関係をまとめると次のようになります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;【力学】⇔【本記事】&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;位置　⇔人そのもの&lt;br /&gt;速度　⇔意志（人の変化の度合）&lt;br /&gt;加速度⇔教育（人の意志の変化の度合）&lt;/p&gt;



&lt;p&gt;　普段の観察に照らしてみると、すごく強い教育というのはその人にかなり無理のある意志も持たせるだけの強い「力」を持っているように思われます。良い方向にも悪い方向にも向く可能性がありますから、つまり、向きと大きさがある。これはベクトルとして扱ってもよい。ということは、人間の変化を表す意志も、向きと大きさがあるから、これもベクトルと思うことができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　こういう風に「意志」と「教育」という言葉を考えてみると、うまく力学の理論と整合性が取れてくるわけです。単純に、変化つまり微積分的関係の対応があるというだけですが、そもそも力学のいろいろな理論は、力と運動の定性的考察によるものなのですから、モデルが変わっても、その現象の性質が似ていれば、洞察にきっかけを与える程度には説得力のある対照構造を見ることができるかもしれません。ここまで見たように、意志という言葉を都合のいいように意味を与えておくと、わりとスムーズに対応を見られるかなと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここで、教育の「力」という言葉を使いましたけれども、力というのは力学で言うと、質量と加速度の積ですね。質量というのも少し分かりにくい言葉で、まあこれもおおざっぱに言いますと、その物体の動きにくさをあらわすわけです。”どれくらい動きにくいか”と”どれくらい動こうとしてるか”の影響を掛け合わせたものが力ですね。「力」が大きいと、かなり動きにくいものでも動かすことができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　質量にあたる、その人の意志の持ちにくさはその人が固有の量を持っていると考えられます。つまり、教室で大勢の人が頷いても、ひとりふたりは頷かない人がいるものです。これは、なんというか、個性ですかね。したがって、力の大きさは加速度、つまり教育だけに比例する。教育の力は、個性を省くと、教育そのもののみ考えれば十分です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　位置との対応を「人そのもの」と書きましたが、その変化を「意志」としている以上、文脈としては、これは精神または心を意味しています。肉体が無ければ、心があり得ないことは容易に想像できますし、教育というものの性質を考える上では、精神的な部分のみに着目するのは悪くないでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;３．「運動の３法則」と教育&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;３－１．第１法則：慣性の法則&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第１法則、慣性の法則は、運動の状態は力が加わらなければ変わらないということです。止まっているものはずっととまっていますし、摩擦がなければ定速で動いているものはずっとそのままです。後者はドライアイスを机ですべらせたときのことを思い出してください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　対応を考えると、教育されなければ、同じ意志を持っているということになります。意志を持ってないとするならば、これはその人そのものを何も変えることはありません。何か他の人やものに教育的刺激の力を受けなければ、その人の意志はずっとそのままです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;３－２．第２法則：運動方程式&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第２法則は、運動の変化は力に比例し、力の向きに起こるということです。地球はリンゴを中心に向かって重力で引いていますから、リンゴは鉛直下向きに落ちていきます。これを、普通方程式のかたちで書きます。運動量は質量m、速度vに対してmvで定義されます。運動量の変化は、mvの変化ですから、これはmaです。したがって、次の形に立式することができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; src=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/03/29/1_3.png&quot; title=&quot;1_3&quot; alt=&quot;1_3&quot; style=&quot;width: 58px; height: 11px;&quot; /&gt;　…(1)
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その人に固有な意志のはたらきにくさ、さきほどは個性という言葉でごまかしましたが、これをm
とおいて、その人が受けた教育をaと置きますと、対応を考えると、教育の力Fというのは(1)で書けます。この対応というのは、先ほど、教育の「力」について考えた時にうまくいくように定義しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;３－３．第３法則：作用反作用の法則&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第３法則は作用反作用の法則です。これは、あらゆる作用の力には、互いに逆向き同じ大きさの反作用が必ず伴うというものです。これのおかげで、机の上のリンゴは重力がかかっているにもかかわらず、机を突き抜けて鉛直に落ちないで、それがちょうど止まるだけの力を机から受け取って支えられています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　対応を考えると、教育者は生徒から同じだけの力を受け取るということになります。これは観察によって、比較的多くの人に認められます。先生というのは教えるだけじゃない、生徒から教わることもあるんだ、ということです。いわゆる、切磋琢磨ということでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　以上より、運動の３法則はわりと説得力のある対応関係があることが分かりました。力学の諸法則はこれらの３法則からの演繹ですから、この力学モデルで教育がその人に与える影響を考えることは、それほど的外れでもないかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これらの３法則をもとに、他の力学の概念や法則と教育の力学モデルを対応させて考えていくことで、教育のあるべき「自然な」性質というものについてアイデアをもらうことができるのではないでしょうか。というのも、ニュートン力学は自然の運動について、これ以上ないほどの説得力のある理論だからです。教育について、ひずみのない自然さが得られるのであれば、これは素晴らしいことです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;４．力学の諸法則と教育、心理的運動&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　最初は教育、つまり加速度にあたる概念は何かということで、この議論を出発しました。１：位置　２：速度　３：加速度と、１：心　２：意志　３：教育　という対応を考えて、さらにそれらが運動の３法則を近似的に満たすような構造を持っていることを得た今となっては、この教育の力学モデルは、&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;心理的運動&lt;/span&gt;の力学モデルといってもよいでしょう。つまり、心の速度を意志とみる、心理についての比喩的運動のモデルです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　以下では、心理的運動に関して、力学の法則を対応させて考えることで、心理的運動の性質を見てみることにしましょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;４－１．運動量保存則&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　運動量保存則は、力が加わらなければ全体の運動量は保存するというものです。典型的な例として、衝突があります。ビリヤードを思い出してください。強く打たれたある球は、他方の球をはじいて自分は止まります。これは２つの球の合計の運動量は保存しているということです。先ほど、運動量は質量と速度の積mvで定義されると言いました。この表現を使うと、物体１と物体２の運動量は、衝突の前後で保存することを下のように立式することができます。衝突後の速度にはプライムをつけてあらわしています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;img height=&quot;18&quot; border=&quot;0&quot; width=&quot;207&quot; alt=&quot;2&quot; title=&quot;2&quot; src=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/03/29/2.png&quot; /&gt;　…(2)
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　対応を考えて、ある２人の人間１と人間２を考えて、その人の意志のはたらきにくさをm1とm2とします。ビリヤードの球を思い浮かべながら、それと同じようなことが起こるということになるはずです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　球が正面から等速でぶつかり合った場合(v1 = -v2)は、相殺して０になります。全く逆の意志がぶつかりあったとき、どちらも意志が止まってしまうということが主張されます。つまり、衝突というのは意志の交換のようなものが行われるべきで、全く違う意志だった場合は「それぞれてんでばらばらに散ってしまう」のではなく、「相手の話を全く真に受けて動けなくなってしまう」はずだということです。現実の観察では、むしろ前者の方が起こりそうな気がします。この比較対応が示唆することは、後者の場合があるべき自然の心理的運動であること、心の衝突、つまり触れ合いは相手の意志が自分のそれと全く等価であることを前提にすることです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　人間１を生徒、人間２を教育者として考えてみましょう。球２が止まっている球１に衝突すれば(v1=0,v2=v)、運動は逆転して、球２は止まり球１は同じ速度、つまり意志で進むことになります。これは運動を教育をもって出発点として考えたことからくると思うと、少し説明できます。つまり、教師は自分の（教師としての）意志をすべて生徒に伝えきれば、あとに残る意志は無いということです。ただし、「衝突」は力、つまり教育を媒介せずに直接移り変わるものだということを思い出してください。教育の力として生徒を加速させているのではなく、あくまで教師と生徒の人間としての「衝突」を考えたときの究極的な心理的運動状態の遷移です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;４－２．力積&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　力積というのは、運動量の変化です。一定の力Fがt秒間だけかかったときには、Ftで定義されます。この２つを合わせると、&lt;/p&gt;



&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;img height=&quot;16&quot; border=&quot;0&quot; width=&quot;122&quot; alt=&quot;3&quot; title=&quot;3&quot; src=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/03/29/3.png&quot; /&gt;　…(3)
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　で立式できます。力がその物体にt秒間でどれだけの影響を与えたかを示す量です。

&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　対応を考えると、教育の力Fに対して、ある時間でその人がどのような人になったか、をあらわします。今、Fは一定の力として立式しました。つまり、「その時代に固有な教育者」という人たちによってなされた、ある一定の教育の力について考えます。このときは、ある人の意志の変化はFとｔに比例します。最初の方で、「すごく強い教育というのはその人にかなり無理のある意志も持たせるだけの強い「力」を持っているように思われます」という風にいいましたが、(3)はこの観察事実を支持するもののようです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、(3)によると、固有の教育を受けていた期間が長いほど、その意志の変化は大きいということを意味しています。ただし、教育制度は原理上一定であり得ません。したがって、(3)は近似ですが、十分短い時間ごとに(3)を振り返れば、良い精度で成り立つといえるでしょう。ここに、教育のジレンマがあります。つまり、長い時間一定で教育し続けることができれば、その時に定められた”理想の教育目標”というものに到達できるのですが、教育は時間変化するために、結局左辺、つまり教育の効果は思ったようにいかずに、短時間の効果が合成されたものになってしまうのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;４－３．反発係数&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　反発係数 e というのは、0から1までの値をとります。衝突に際して、e = 0 の時は全然跳ね返らずにぼすっと落ちる。つまり、運動量は跳ね返りの後０になる。e = 1 の時は完全に跳ね返って向きだけ変わる。つまり、運動量は跳ね返り前後で保たれる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これについて同じように対応を考えるのですが、衝突について、２物体ではなく、壁との衝突を思い浮かべると、ボールが壁に跳ね返っているようなイメージです。壁と対応するものとして、自然や真理という風におきましょう。このひとたちは、意志がめちゃくちゃ固くて、m = ∞ です。それは、これらの言葉の定義がそれを意味しています。自然が人間に教えてくれること、というのももちろんあるわけで、これを教育者としての自然ということにします。この教育者さんは意志を変えないです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このような、自然との衝突を考えた時に、教育のモデルの中で、学問を考える余地が出てきます。つまり、学問は自然という教育者の生徒になるという風に考えるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　e = 1のとき、これは人間ががんばって、がんばって自然にぶつかっていっているのに、向きだけ変わって全然自然には影響を与えられないさまを表していて、ちょっと泣けますね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まあ、それでもたいていの現実の物質が 0 &amp;lt; e &amp;lt; 1 であるのと対応していると考えれば、普通は 0 &amp;lt; e &amp;lt; 1 と思ってもいいでしょう。このとき、自然というのは人間に教育しつづけてくれるわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　e = 0 のとき、つまり自然にぼすっと当たって速度が0になる、つまりそれ以上自然の方へ向かっていきたくなくなるときが、学問の終わりなのかな、と思います。自然にぶつかっても、なんにも感じないわけですもんね。そうしない限りは、何回も何回もぶつかっていっては向きを変えたり速さを変えたりする、そのある意味滑稽とさえいえるような姿が、人間らしい学問している姿なんかな、と思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;５．まとめと考察&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　以上の考察から、冒頭で述べた教育の共時性は力積、学問の通時性は反発係数にそれぞれ帰着されたのではないかと思います。特に、反発係数は「衝突」という瞬間的意志変化、言いかえると、時間に依存しない意志変化をもたらすものについてであり、これが通時性を重視したときの、自然の心理的運動についての示唆になっているかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いずれしろ、厳密に定義された中での力学の諸法則と、それに単にならってモデル化したものでは理論の精度が全く異なることは言うまでもありません。しかし、例えば運動量保存の話題などは、自然の心理的運動がどうあるべきであるかについて、すこしばかり示唆を与えてくれるものかもしれないし、完全ではなくとも似たところがあるように思われます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　現実の教育は主に経験則から、不完全な方法論のコピーを頼りに行っているように思われます。素晴らしい先生に教えられたからといって、その生徒すべてが素晴らしい先生になるとは限りません。むしろ、素晴らしい先生は希少なものかもしれません。「あるべき」教育の理想が何かについては、心理的な教育以外の要因、つまり歴史だとか科学的根拠だとかが絡んできますし、一概に理論を構築することは難しいと思います。しかし、教育哲学的な部分、つまり素晴らしい先生に共通する部分というのは、何かしらあるはずではないかとも思われます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自然な運動は、合理的で美しくすらあります。心の方も、まったく自然に美しく合理的に動けば、その心理的運動は人々をよりよく駆動するのではないか、という直観があります。少なくとも、真理を探して歩くのが好きな人間は、自然から学びとる姿勢で考察をすることを重視しなくてはならないのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここに挙げた比較は、必ずしも説得力のあるものだとは言いにくいかもしれませんが、子供を教育することにおいて影響力の強いひとたちは、十分に理想に近づくような方向で研究を進めていってもらいたいものです。&lt;/p&gt;
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<dc:subject>0.学問一般</dc:subject>
<dc:subject>2-02.物理学</dc:subject>

<dc:creator>ひらめき電球</dc:creator>
<dc:date>2009-03-29T03:31:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-fc22.html">
<title>言語の変化の「運動の３法則」による考察</title>
<link>http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-fc22.html</link>
<description>言語の変化（進化）と物質の運動を比較することで、コミュニケーションの定性的側面について考察する。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;em&gt;この記事は&lt;strong&gt;哲太&lt;/strong&gt;が書きました。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ひとつの提案として、言語それ自身を扱うのではなく、言語の変化を見ることで言語の本質を考えるということを挙げます。運動は物体の位置の変化
です。物質が何からできているか分からなくても、その変化は観察することができます。言語の変化は人々がお互いの言葉を交わすことによって生まれることは
明らかです。これをコミュニケーションと呼ぶことができるでしょう。コミュニケーションと運動を比較することで、物理学の方法を心理学的言語学に用いるこ
とはできるでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;１．言語学の方法&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ソシュールに端を発する一般言語学とは、言語そのものの一般的性質について考察したものです。つまり、具体的な言語によらずに、言語を扱う上で必ずかかわってくるような性質についてです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この一般性が、ソシュールがしばしば言語学者として以上に、哲学者として取りざたされる所以だと思います。構造主義といわれる、この無意識レベルの性質についての思考のアクセス法は、それまでの伝統的言語学、つまり歴史言語学や比較言語学といったものの着眼点からはちょっと想像しにくいほどの飛躍があったように思います。&lt;/p&gt;


&lt;p&gt;　ソシュールは音韻論を踏まえて、つまり観測データを踏まえて、言語について述べました。ソシュール自身による文章が残っていないのが本当に残念ですが、各種の資料から見ると、定量的なアプローチをかなり意識したものと思われます。時間と空間についての考察がかなりされています。また、これら２つのものは分けて考えなくてはならないとも書かれています。しばしば、ソシュールは共時的な言語の性質を論じたと言われますが、僕はそうではなく、どちらも等価に扱っているように思います。これについて詳しくは「&lt;a href=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-b398.html&quot;&gt;ソシュール再考&lt;/a&gt;」を参考にしてください。&lt;/p&gt;


&lt;p&gt;　その一方で、伝統的な言語学が重要な主要分野であることは言うまでもありません。実際に使っている言語に、即時的な影響力を持つのは、やはり具体的な”音”や”文法”を扱っている分野なのです。いわば、言語実践の現地におけるデータの分析。科学はいつも観察することから始められなくてはなりません。言語学における定量的な研究に、&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E9%87%8F%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6&quot;&gt;計算言語学&lt;/a&gt;があります。これは、コーパスと呼ばれるデジタルのテキストデータに統計的な考察を加えることで言語的な定性的結果を得ようとするものです。一方で、伝統的な言語学は、&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E9%9F%BB%E8%AB%96&quot;&gt;音韻論&lt;/a&gt;や&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E8%AA%9E%E8%AB%96&quot;&gt;統語論&lt;/a&gt;といった、膨大な発話の例から一般的性質を導こうとするアプローチです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　現在の言語学の主流はノーム・チョムスキーによる生成文法を元にした種々の文法理論です。言語が生成的、つまり語彙を組み合わせていくらでも文章をつくることができるということに着目した理論です。これは共時態を扱うもので、言語の変化を扱うことはあまり無いと言えます。言語の変化は「進化」とも呼ばれ、これを扱う研究はあるにしても、言語学の主要な分野は統語論と音韻論さらには意味論であると言えると思います。したがって、言語の変化を全く別の視点から考察することには、少なからず意味があるものと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;２．運動の法則概説&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　最も重要な物理学者のひとりに、&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3&quot;&gt;アイザック・ニュートン&lt;/a&gt;(1643-1727)がいます。ニュートンの著作には「自然哲学の数学的諸原理」(1687)（もしくは「プリンキピア」）があります。ここでニュートンは、運動の法則という３つの法則を提案します。&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;運動&lt;/span&gt;とは、物質の時間についての空間的変化をいいます。大きさがなくて質量がある質点がモデルとして扱われます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　第１法則：慣性の法則&lt;br /&gt;
　第２法則：運動方程式&lt;br /&gt;
　第３法則：作用・反作用の法則&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
　簡単に説明すると、「第１法則：慣性の法則」とは、外から何か力が働かないときには質点はその運動状態を保つ、ということです。「第２法則：運動方程式」は、運動量の時間変化は力の大きさに比例し、力
の向きに作用する、というもので、普通微分方程式で書かれますが、ニュートンはこれを微分方程式として扱わず、初等幾何だけで示したそうです。これについての詳細と経緯は「&lt;a href=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0012.html&quot;&gt;楕円の法則のファインマンの証明&lt;/a&gt;」を見てください。「台３法則：作用・反作用の法則」は、質点間の作用
には必ず同じ大きさ逆向きの反作用があるということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この３法則は、アインシュタインの相対性原理によって覆されるまでの２００年以上、運動を記述するモデルとして繁栄してきました。覆されたといっても、ある仮定下では正しく成り立っているので、普通の計算をするには十分な精度のモデルといえます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;３．なにがニュートンを導いたのか&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;３－１．デカルト&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ニュートン力学の思想的根底にはデカルトがあります。「哲学の原理」において、運動の法則の原型と思われる考え方が書かれています。書かれています、なんて気軽に言えるのは、僕が”ニュートン力学”を熱心に学んだからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そこでは、もちろん微分方程式で書かれているわけではなくって、一見すると確かに正しそう、でも何に使えるのか分からない。これを、物理学の次元にまで持っていったニュートンの分析力と総合力が卓越していることは認めざるをえないでしょう。多くの初等的命題と同じく、その難しさに関わらずいったん言われてしまうと、簡単そうに思えるのです。やりきるのにどれだけの覚悟と努力が必要かは想像しがたいものがあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;３－２．ケプラーの法則&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そもそも、物理学は天文学からの派生です。というのも、運動の法則の直接の成果と、その正しさの保証は天文学がしているからです。ヨハネス・ケプラーという天文学者が、精密な観測データから&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87&quot;&gt;ケプラーの法則&lt;/a&gt;を導きました。ケプラーの法則は、惑星の運動に関する３つの法則です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　詳しい内容は「&lt;a href=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0012.html&quot;&gt;楕円の法則のファインマンの証明&lt;/a&gt;」を参考にしてください。このケプラーの法則に、惑星を質点として近似し、運動の法則を適用すると、有名な&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9C%89%E5%BC%95%E5%8A%9B%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87&quot;&gt;万有引力の法則&lt;/a&gt;を導くことができ、これは惑星の運動とリンゴの落下（重力のはたらき）が同じ理屈で説明できるということなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここで大事なのは、ニュートンはあくまでデータの因果関係をどう説明するか、ということを提案したことです。これは、自然現象の観察に基づいています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;３－３．ニュートンの仕方の考察&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まとめると、ニュートンは定性的法則にはデカルトの結果を受け、定量的法則にはケプラーの結果を受けています。これはすなわち、定性的には哲学に影響を受け、定量的には天文学に影響を受けています。これは、物理学の価値を本質的に高める要因となっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　計算だけでは、一般的な法則は導くことができません。また、一般的な考察ばかりでは、実際の現象に対してどれだけ迫っているモデルなのかが分かりません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このことを考えますと、定性的側面と定量的側面を総合することが、どれだけ効果が大きく有用なものであるかが分かります。理論言語学は大量の実データを分析することによって帰納的に法則を得ようとしています。これは理論という名がつくものの、実験言語学といってもよい側面です。純粋に定性的考察を哲学の域で与え、それを法則として取り入れることで理論を構築するという態度が必要になると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;４．コミュニケーションと運動&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　通時的な言語を考える際、重要なのが「交雑の力」（ソシュール 1911）といわれるものです。これは人々が動きながら（例えば旅行や移住）、その土地の人々と会話をしていくことで、徐々に言語が一様化されてい
くという力をいいます。この力が、人と言葉を交わすこと、つまりコミュニケーションをすることによってはたらくものだという意味で、通時的な言語はコミュニケー
ションによって特徴づけられているといえます。

&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　時間をストップすれば、ひとつの共時態が形成され、そのときひとつの言語が決まります。これだけを精密に分析すれば、非常にすぐれた文法学者は、生成文法などの理論によってその言語を記述しきることができるかもしれません。このときに定められた言語が存在している場所を、&lt;span style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;言語空間&lt;/span&gt;ということができます。&lt;/p&gt;



&lt;p&gt;　理論上は、時間を１つ決めたときに言語空間上の言語は１つ決まります。この言語は時間について変化します。これを言語空間上のコミュニケーションと呼ぶことができると思います。（物質の）運動は、物質の時間についての空間的変化であるといいましたから、これは共通するところがあるように思います。コミュニケーション、すなわち言語の変化を運動のモデルで考えてみることにしましょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;５．運動の法則との比較&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;５－１．慣性の法則&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第１法則は慣性の法則でした。「&lt;a href=&quot;http://academic-hirameki.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-b398.html&quot;&gt;ソシュール再考&lt;/a&gt;」の(3)により&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;（以下（）の通し番号は「ソシュール再考」の（）に対応しています）&lt;/span&gt;、
言語の時間的変化は止まりません。それは、人類が初めてことばを話したときからずっとです。これは人々が言葉を交わすことをやめないことを意味しています。これをコミュニケーションの慣性と呼ぶことができるかもしれません。しかし、規模を小さくして、まあいきなり小さくして、２人のコ
ミュニケーションを考えたときには、言語の時間変化が（ほとんど）止まるかもしれません。（長年連れ添った老夫婦のようなイメージです。）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このとき、２人はほとんど同じ言語を用いていますから、話す必要性があまり感じられません。これは慣性が無くなっているように思われます。この現象は、熱
の平衡状態に似ています。温度が一様になれば、一見物質のうごきは止まったかに見えます。しかし、このとき小さい分子はやはり動いているのであって、運動
は止まってはいません。分子の運動が全体として釣り合ってしまったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このことは一種の「最小作用の原理」として考えることができるかもしれません。最小作用の原理とは、分かりやすい例は光の進路です。ご存じのとおり光は直線で進みます。なぜなら、直線は目標地点までの最小距離だからです。光がある目的地に向かって進んで行くとするなら、それはいつも最小の経路で進みます。回り道をすることはありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　人が発話をするとき、できるだけ簡潔に伝えようとする傾向があります。仲がよくなってくれば、二人の間の暗号「おい、あれ」「ああ」という会話が可能になります。これを極端にした例が、上述の老夫婦の例です。これを一般化して、人のコミュニケーションについての最小作用の原理が考えられます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(4)により、言語の時間的変化は常に細部に起こります。したがって、言語のゆらぎが全体として釣り合った時には、言語の変化は止まったかに思えるでしょう。言語が非常に多数の要素からなることが理由です。このとき、言語は一様になっています。したがって、この慣性は一様化が進む方向にかかりやすいと言えるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;５－２．運動方程式&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　作用は力が起こします。運動のモデルでは、ある言語空間上の言語になんらかの力がかかって、言語が変化すると考えるのが自然です。しかし、この力がなんであるのかを考えるのは難しい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ひとつの可能性としては、慣性のかかりやすさを決めるもの、つまり一様化に向かう力です。これはソシュール 1911の「交雑の力」と同じものです。向きは常に一様化に向かう向きであり、大きさは一様化する必要性に比例すると思われます。一様化する必要性は、人によって違うようにも思えますが、ひとつには地理的な距離でしょう。近い人とコミュニケーション可能でなければ、言語は言語として成立しません。したがって、この必要性は距離に少なくとも逆比例すると思います。(2)、(5)が参考になると思います。


&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;５－３．作用・反作用の法則&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;


&lt;p&gt;　コミュニケーションはことばのキャッチボール、なーんていうとちょっと恥ずかしくなってきますが、これは正しいと思われます。すなわち、「おはよ
う」に対して「おはよう」と答えること。これが無いと円滑なコミュニケーションがとれません。つまり、基本的に会話は２発話１組なのです。１つの発話に対
して反応を返さないこと、つまり無視することは、コミュニケーションの規則上また人間関係上悪い影響を与えます。&lt;/p&gt;


&lt;p&gt;　個人の持っている言語を考えます。これは個人的には、社会的に身につけられるものであると思います。しかしながら、各個人は異なる言語を持ってい
るように感じられることがよくあります。チョムスキーはこれら２種類の言語を必ずしも区別していません。ここでは、特に個人の持つ言語能力の行使について考えます。老夫婦の例のようでもなければ、普通２人以上の言語が平衡状態になっていることは考えられません。&lt;/p&gt;


&lt;p&gt;　この個人のもつ言語を、力学的な質点と対応させて考えてみようと思います。作用・反作用の法則は、質点間では作用があれば反作用があるということでした。コミュニケーショ
ンは２つで１つ。相手の言語に作用を与えようとすれば、常に自分の言葉の反射のような言葉が返ってきます。これは、自分の言語に必ずや作用を与えますか
ら、反作用です。上のあいさつの例で見たように、作用に対する反作用は欠かせないもののように思われます。これを法則として取り入れられるかもしれません。&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>1-23.情報学</dc:subject>

<dc:creator>ひらめき電球</dc:creator>
<dc:date>2009-03-27T00:16:00+09:00</dc:date>
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